螺旋の海 番外編 <前編>

 ――見つけた。彼だ。


 秋の気配が漂う南フランス。日が暮れ始め、人影の少なくなった海岸で、捜し続けていた人物の姿がテンマの視線を捉えた。
 金髪碧眼、端整な顔立ちにすらりとした細身の青年――ヨハンだ。
 ヨハンは一人、砂浜を歩いていた。潮風に吹かれ、凛として、静かに。夕暮れ色に染まる海岸を歩く彼は絵に描いたように美しかった。
 言葉を発することもできず、正体のわからない感情がテンマの身体を駆け巡る。テンマがかろうじて出来たのは、離れた遊歩道でただ立ち尽くし、目の前に広がる光景を胸に刻むことだけだった。



「おいおっさん、あんたストーカーって奴だろ」


 MSFの派遣地から帰国してひと月。ようやくヨハンを捜し当てたのはいいものの、これからどうしたものかと迷っている内に10日近く経ったある日。港町の市街地で、突然テンマは背後から声をかけられた。振り返ると、ヨハンと話しているのを街で時々見かけた少年だ。年齢は10歳くらいだろうか。まっすぐにテンマを睨みつけている。
「ヨハンに何の用だ? あんたがずっとあいつを嗅ぎ回ってんの、俺知ってんだからな」
 テンマはヨハンの母親のいる修道院に通ったことがあり、フランス語圏の地域でもMSFの活動経験があったので、多少の会話ならフランス語も話すことができる。
「ええと困ったな、違うんだ、私は……」
 誤解を解こうとしたその時、少年の後ろから覚束ない足取りで一人の女児が駆け寄ってきた。すると石畳に足を取られたのか勢いよく転んでしまう。
「あーもー、危ないから付いてくんなって言っただろ。ったく……」
「だって……」
 少年が呆れたように、泣きじゃくる女児の脇を持ち上げ、身体を立たせる。その膝や手には擦り傷が見えた。テンマは大きな鞄を肩から下ろし、消毒薬を取り出す。
「少し沁みるけど我慢して。はい、終わり。もう大丈夫だよ」
「うん、あ、ありがと」
「あれ……おっさん、もしかして医者なの?」
 慣れた手つきで手当てをするテンマに少年が驚きの声を上げる。
「ああ、そうだよ。ヨハンは私の患者だったんだ。彼の様子が気がかりで私はこの街に来たんだよ」
「へー、そうだったんだ……。でもそれならどうして会いに行かないのさ?」
「それは……この街で彼がどんなふうに暮らしているのか、この目で確かめたかったから、かな」
「ふうん。ヨハンは時々海と母ちゃんの所を行き来してるみたいだけど。それなりに上手くやってるんじゃないかな」
 どうやら信用してもらえたようだが、少年の言葉にテンマは少し耳を疑う。
「ヨハンは君にそんなことまで話しているのか?」
「うん。なんで?」
「いや……それならいいんだ。ありがとう。近い内、彼に会うことにするよ」
「そっか。意外とヨハンも会いたがってるかもよ。あ、こいつの手当てあんがと。それじゃあね」
そう言って少年は女児の手を取り、路地を引き返していった。


 ――会いたがっている、か。
 本当にそうならどんなにかいいだろう。ヨハンに会いたくてここまで来たのに、いざとなるとためらう自分がいる。多分、彼の真意を知るのが怖いのかもしれない。


『いらなかったのは、どっち……?』


 あの夢とも現実ともつかない白昼夢が脳裏をよぎる。彼の大きく見開かれた青い双眸が、テンマの目に強く焼きついて今も離れない。彼はどんな思いでこの日々を過ごしているのだろう。ヨハンが警察病院を失踪して以降、彼の犯行を示す事件は一切起きていない。もちろんこの海辺の街でも。


 テンマの行為は彼に何をもたらしたのだろうか。少しでも彼が安らぎを覚えることなどあるのだろうか。
 立ち並ぶ建物の間から見える紺碧の地中海を眺めながら、テンマは海岸を歩くヨハンの姿を思い出していた。



 ふと息苦しさを覚え、テンマは目を覚ました。
 身体を捩ると誰かの腕に抱きしめられていることに気づく。ゆっくりと相手の腕をほどき、上半身を起こすと下腹部と臀部に痛みが走った。その痛みは生々しい記憶を浮き彫りにさせる。流されるまま、身を任せるままにしてしまったヨハンとのセックスを――。


 身体は綺麗にされていた。部屋は暗いが、カーテンの隙間からわずかに月明かりが洩れ、薄手の上掛けを腰まで掛けたヨハンのしなやかな上半身が覗く。ヨハンは病院で見た時と変わらない、穏やかな顔で眠り続けている。


 本来、テンマは同性愛者ではない。彼との行為が怖くなかったと言えば嘘になる。組み敷かれ、貫かれ、テンマの矜持は引き裂かれた。
 だが、悲壮な目で求めてくるヨハンを拒むことはテンマにはどうしてもできなかった。キスされた時も拒否しようと思えばできたはずだ。「どうして僕を拒絶しないの」とヨハンに問われても、逆に問い返してごまかすことしかできなかった。
 そうして大して抵抗もしないまま、苦痛と羞恥、不快感を堪えていたが、やがて快楽の波に引きずられ飲み込まれていくのを感じた。溺れていく――あんな感覚を覚えたのは初めてだった。


『好きになってごめんね』


 テンマの身体を愛撫しながらぽつりと零したヨハン。人が人を好きになるのに謝る必要なんてない。そう言うしかないヨハンにテンマの胸は苦しくなった。


 テンマは眠るヨハンの髪にそっと手を伸ばし、手術痕を指でなぞる。ケロイドにもならず、うっすらと残る傷痕は綺麗だ。
 規則正しく繰り返されるヨハンの寝息と、静かな波の音。ヨハンの顔を眺めている内に再び睡魔が襲ってくる。テンマは掛け布を掛け直すとベッドに横たわり、目を閉じた。ヨハンとの関係がこれからどう変わっていくのか、うとうとと思いを馳せながら。


◇ ◇ ◇


 再会したあの日を境に二人の関係が一転してから2年。
 ヨハンの言うところの実験に付き合ってだいぶ経つが、この奇妙な状況もテンマにとって既に日常的なものとなった。ヨハンの許で休暇を過ごした後、ドイツの病院で非常勤医として働き、MSFの任務を短期でこなす。そしてまた彼の許へと帰っていく。そう、「帰る」という単語がしっくりくるほど、今の日々が当然のようになってしまっている。


 二人の暮らしは以前では考えられないほど、穏やかなものだった。
 テンマよりも遥かにフランス語に精通しているヨハンから言葉を教わったり、逆にテンマが日本の『桃太郎』を勧めてみたり。日本の家庭料理を試しに作ってみた時もヨハンは残さず食べてくれた。
 時折、過去の夢にヨハンは苦しんでいるようだったが、それでも母親や妹との拗れた関係にも少しずつ折り合いをつけているように見えた。


 とはいえ、全く難点がない訳じゃない。ヨハンは意味深な質問を投げかけてはテンマの反応を試すようになった。
 今朝も朝食を終え、お茶を飲んでいた時のことだ。
「ねえ。僕が突然いなくなったらどうする?」
「何だい、いきなり。……どうするって、もちろん捜し出すよ」
「逃亡中の時みたいに? それでもどうしても行かなきゃならないMSFの仕事があったら?」
「え、それは……」
 テンマは言葉に詰まる。実際ヨハンが警察病院から失踪した時、彼を捜し出すことよりもMSFを優先したのは紛れもない事実だった。
 二の句が継げないテンマに、ヨハンはくつくつと笑い出す。
「ごめんなさい。先生の困った顔が見てみたくなっただけ。でもこれだけはわかるよ」
 ヨハンの意図がわからず、テンマはヨハンを見つめ返す。
「あなたは医者だから。前にも言ったよね、目の前に患者がいたら助けるだけだと。僕に先生の意思を動かす力なんてないから」
 そんな言い方をされては、どんな顔をすればいいのかわからなくなってしまう。困惑するテンマをよそに、ヨハンは席を立ち、養護施設に出かける支度を始めていた。


 ヨハンはテンマを好きだと言いながら、一方では妙に自嘲気味に振る舞う。彼にあらゆる意味で振り回されている自覚があるテンマとしては、それが理解できない。
 ヨハンにテンマを動かす力がないなんて嘘だ。彼のそばにいる時はもちろん、遠い地にいる時でも彼を忘れることなどない。一緒にいることで生じるリスクもとうに覚悟しているのに、どうしてそんなことを言い出すのか。


 ヨハンが突然姿を消したら――。
 それはテンマが何よりも恐れていることだった。思えば彼と初めて関係をもった翌朝もそうだった。目を覚ますと隣で眠っていたはずのヨハンの姿が見えず、プラハのホテルでの一件を思い出して、慌てて部屋を飛び出したのをよく覚えている。


 今でもそうだ。MSFの仕事を終え、ヨハンのアパートに帰る時は毎回のように緊張する。テンマとの実験に飽きて、突然彼が目の前からいなくなってしまったらとの不安が拭い切れないからだ。
 かつてのヨハンがそうだったように、まるで最初から誰も存在していなかったかのようなアパートの部屋を想像しては不安を隅に追いやってドアを開ける。そしていつもの薄い笑みを浮かべたヨハンが出迎えてくれると安堵で胸を撫で下ろすのだった。


『当分ここにいるよ。この僕が人間として生きることができるのか……そう、要するに “実験” みたいなものかな』


 あの時、彼は確かにそう言った。だが、ずっとこの地にいるという保証はない。テンマがこんな焦燥を抱いていることをヨハンは知っているのだろうか。


 普段何を考えているのか言動や表情からは掴めないヨハン。その一方で、テンマに好きだよと囁き、キスを寄せてくる。テンマにはそれが、ヨハン自身が感情を確かめているかのように映る時がある。
 それでも抱き合い、求め合うその時だけは人間らしい情欲を感じられるから、テンマも彼を受け入れるのかもしれない。
 ヨハンと性的関係をもつことに罪悪感を覚えながら、この「実験」を途中でやめることもテンマには到底考えられなかった。



 MSFの任期を終え、テンマは再びヨハンのアパートに帰ってきた。吐息は白く、季節はもう冬だ。日暮れも早く、温暖な気候とはいえ流石に寒い。直前まで南半球の暑い国にいたテンマの身にはこの寒さが尚更堪えた。
「ただいま」
 ドアを開けると中は暗く、一応声をかけたが、やはり挨拶は返ってこない。ヨハンは留守のようだ。
 このアパートは中央暖房なので部屋の中は既に暖かい。リビングに入り、灯りをつけるといつもと変わらない部屋の様子にテンマはほっと息をつく。窓辺に飾ってある小さな花かごもいまだ健在だ。コートを脱ぎ、コートスタンドに掛けていると、あるものがテンマの目についた。


 チェストの上に無造作に置かれた、一枚のポラロイド写真。手にすると、写っていたのは曇り空の海岸に佇むヨハンだった。いったい誰が撮ったのだろうか。少し色褪せた、ポラロイド独特の風合いは彼の美しさを際立たせていて、テンマは写真のヨハンに魅入ってしまう。


 彼を見つけたあの日からずっと、テンマは夕暮れの海辺を歩くヨハンが好きだった。海にいる彼を見たいがために帰国時にわざと連絡しなかったこともあったほどだ。


 写真の中のヨハンはこちらに背を向け、その横顔はどこか物憂げだ。この表情の先に、彼は何を思っているのだろうか。
 写真は、何度身体を重ねていても手の届かない遠い存在なのだと突きつけているように思えて、テンマは胸が締めつけられるような痛みを覚えた。


 しばらく写真を眺めていると、玄関からドアの開く音が聞こえた。ヨハンが帰ってきたのだ。テンマは無意識に写真を懐にしまうと、彼を迎えに玄関へと向かった。

あとがき <次へ>


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