螺旋の海 番外編 <後編>

 ――MSF・派遣地、宿舎。


「Dr.テンマ、そう言えば聞いたか? 病院の外に銃を持った物騒な連中がいたってさ。ここは比較的安全だと思ってたが、ヤバいのかねえ」
「ああ、そうみたいですね。でも気にしてもしょうがないですよ。私たち医者はオペに集中しないと」
「なんだ、ドクターは見かけによらず肝が据わってんな。やっぱり何度も派遣されてると慣れるもんなのかね。俺は今回が初めてのミッションだからなァ」
 彼はふう、とため息をつきながら頭を掻いた。今回のミッションでテンマとチームを組む医師の一人、Dr.スコットにテンマは小さく笑みを洩らす。個室のドアの前まで来ると、二人は一旦立ち止まった。
「それじゃDr.テンマ、また明日な。あー、今日も一日疲れたなあ」
「ええ、そうですね。おやすみなさい、Dr.スコット」
 挨拶を交わすと二人は互いの部屋に入っていった。


 MSFの事務所兼宿舎は病院から車で10分ほど離れた所にあった。スタッフには個室が割り当てられ、蚊帳付きのベッドや机、クローゼットなども備えられている。
 テンマは寝間着のTシャツとスウェットに着替えると、机の引き出しから写真を取り出した。ベッドに横になり、写真を眺める。結局あれから何も言わずに持ち出してきてしまったヨハンの写真だ。今では就寝前や仕事のない休日など時間のある時に、テンマは決まってこの写真を見るのが日課になっていた。
 自分でもなぜなのかはわからない。だが彼の写真を見ていると、かすかな痛みの他に安らぎを覚えるのも確かだった。以前の二人の関係を思えば、運命とはわからないものだとつくづく思う。


『待ってるから』


 2年前、旅立つテンマにそう声をかけたヨハン。揺れるブルーアイを思い浮かべ、テンマは写真を机に戻す。照明を消すと上掛けのシーツにくるまり、瞼を閉じた。
 充実してはいるが過酷でもあるMSFの活動。ヨハンという帰る場所があるからこそ、長く続けられるのかもしれない。頭の片隅でぼんやりと思いながら、次第にテンマの意識は薄れていった。



 ――南フランス。


 陽射しは暖かく、潮風が春の訪れを感じさせる。めくり上げたシャツの袖から白い包帯を左腕に覗かせ、テンマは予定より早めに帰国した。ヨハンのアパートに戻ると、出迎えてくれたヨハンがいつもの笑みを見せる。
「ただいま、ヨハン」
「おかえりなさい。思ったより帰国が早いみたいだけど。……どうしたの、その包帯」
 左腕の包帯に気づいたヨハンの顔から笑みが消え、翳りが浮かんだ。テンマは部屋の奥に進みながら無事だと言うように早口で説明する。
「ああ、現地で銃撃戦があって流れ弾が飛んできたんだよ。でも掠っただけで大したことはないんだ。ほら、腕も指もちゃんと動くから」
 テンマはリビングのソファに座り、心配には及ばないと左腕を前後に動かしてみせる。だがヨハンの表情は曇ったままだ。
「銃創の専門医に診てもらったんだ。オペだってできるし、もう大丈夫だよ」
「――用心してください。あなたの命はあなただけのものではないのだから」
 思いつめた顔のヨハンに言われ、テンマも神妙な面持ちになる。
「……うん。心配かけてごめん」
「先生、腕の痛みは?」
「まだ少しあるかな。だいぶ良くはなったけど」
「そう。じゃあ今日は無理だね」
「…………」
 何が、と訊こうとしてすぐに思い当たり、テンマは口をつぐむ。顔を赤らめて年甲斐もないとは思うが、ヨハンとこういったやり取りをするのは未だ慣れない。
「一人だと思ってたから夕食は軽く済ませようと思ってたんだけどね。そうだな……先生、ポトフでいい?」
「あ、ああ、頼む。ヨハンのポトフ、久しぶりだな」
 ヨハンはもう普段と変わらない顔色に見えた。ヨハンがキッチンに向かうと、テンマはソファに深く凭れかかる。
 ――帰ってきたんだ。
 テンマは左腕の包帯を見下ろし、大きく息を吐いた。



 その夜、二人は同じベッドで眠りについた。ダブルベッドなので大の男が二人でも特に問題はない。ただ、快方に向かっているとはいえテンマが左腕を負傷していることもあり、ヨハンはキスだけでその後は何も求めてこなかった。


 夜も更けた頃。うなされるヨハンの声にテンマは目を覚ました。ヨハンは声にならない声で譫言を繰り返している。
 また悪夢を見ているのだろうか。彼と夜を過ごすようになってテンマも知ったのだが、ヨハンはこうして度々夢に苛まれていることが多かった。昼間はあの仮面のような顔で気づかないが、テンマが思っていたよりも遥かにずっと、彼は苦しんでいた。それでも最近は以前より夢の頻度が減ってきたように思っていたのだが。
「……ヨハン?」
 堪りかねたテンマはベッドサイドの灯りを点け、名前を呼ぶ。するとうめき声はやがて静かになった。ほっとしたのも束の間、ヨハンは汗で髪が張り付いた顔をこちらに向けると、勢いよくテンマに抱きついてきた。
「わっ! こら、今日はしないって約束じゃ――」
 右手でヨハンの肩を押し退けようとしても、ヨハンは頑なに離れようとしない。だがテンマを強く抱きしめたまま、それ以上何かをしてくる訳でもなかった。とりあえず左腕にも配慮はしてくれているようだ。
 ヨハンの様子を窺うと、しばらくして異変を感じた。右肩のTシャツに伝わってきたのは、温かく湿った感触。


 ――もしかして、泣いている……?


「……どうした?」
 汗ばんだヨハンの髪を撫で、彼が落ち着くのを待つ。
「あなたが……」
 ヨハンは軽く身を起こし、テンマをまっすぐに見つめた。青い瞳から涙が溢れ、テンマの頬にぽたぽたと雫が落ちる。
「あなたがいなくなったら僕はどうすればいいの」
「……ヨハン」
 まるで子供のようなか細い声に、初めて見る涙。ヨハンはいつも、テンマの心を強く揺さぶる。全身で縋ってくるヨハンに、テンマはもう目を逸らせない。


 ――初めて見る涙……?
 違う。彼の涙を見たのは初めてじゃない。
 あの時も――あのアイスラー記念病院でニナと顔を合わせた時も、幼い彼は手を差し伸べながら静かに泣いていた。今はテンマに向かって泣いている。


「夢を見たんだ。あなたの夢。ずっと待ち続けているのに、あなたはいつまで経っても帰ってこない。僕を置いて二度と戻らないんだ」
 ――同じだ。
 ヨハンがいつか目の前からいなくなってしまうのではないかと恐れているテンマと、テンマが帰ってこない時がやがて来るのではないかと不安を抱くヨハンと。二人は全く同じことを考えていた。
 テンマは涙に濡れる白い頬をやさしく指で拭う。それでも涙は止めどなく流れていく。
「ヨハン、すまない……。だけど、私は行かなくちゃならないんだ。どうしても、あの場所に」


 テンマにとって、医師としての居場所を見いだすことができたのがMSFだった。いつまで続けられるかわからないが、できるだけ今はMSFに心血を注ぎたいと思っている。だが任務は危険を伴い、またいつ事故や事件に巻き込まれないとも限らない。絶対に死なないなんて誓うことはできないし、言える訳もない。


「わかってる。あなたは医者だ。あなたを押し止めることは誰にもできない。あなたは、……だから」
 最後はくぐもってよく聞き取れなかった。だが、テンマの胸に抑えきれない感情が溢れ出してくる。いつの間にか心の奥深くまで根差していたのに、一度も伝えていなかった大切な想い。それはごく自然な言葉となってテンマの口から零れていた。
「……好きだよ。ヨハンが好きだ。……だからそんなふうに泣かないでくれ」
 ヨハンの頬を右手で撫でると、見開いた青い目から一筋の涙が伝い落ちる。ヨハンは一瞬の沈黙の後、掠れた声で小さく呟いた。
「……嘘だ」
 ヨハンの口から紡がれたのは不信だった。遠くに打ち寄せる波音だけが、静かに部屋に響いていく。
「あなたが僕の許に帰ってくるのは『実験』だからだ。帰国を知らせない時も僕を試しているからでしょう」
「な――違う……!」
 予想もしなかったヨハンの告白に、テンマは声を張り上げる。だが、ヨハンはひどく冷静だった。


 ヨハンがそんな思いを抱いていたなんて考えもしなかった。
 実験に付き合うためだなんて、始めはともかく、今となってはただの口実に過ぎない。同性で二回り近くも歳が離れ、かつてはこの手で殺すと誓ったヨハン。その彼と関係を結ぶ後ろめたさから目を背けるために実験と言い聞かせていただけだ。
 彼の許に帰るのは義務感からじゃなく、ただ会いたいからだ。顔に触れてキスをして、何もかも受け入れて――。
 テンマはもうとっくにヨハンを愛している。どうしたらこの気持ちが彼に届くだろうか。


「ヨハン、お願いだから聞いてくれ」
 テンマはヨハンの首の後ろに右手を回し、ゆっくりと抱き寄せる。ヨハンは何も言わずにテンマの胸に顔を寄せた。
「……私も君と何も変わらないんだ。ここに帰る時はいつも、君がどこかにいなくなっているんじゃないかと不安で仕方がなかった。連絡をあまりしなかったのだって、それを確かめるのが怖くてできなかったんだ。だから君が出迎えてくれる度に安心した。それに――」
 言い淀んだテンマに、ヨハンが顔を上げる。
「それに、何……?」
「……海辺で歩く君の姿が見たかったんだ。連絡したら君は海に行かずに帰ってくるから」
「海にいる僕が? なぜ?」
「わからない……でも初めて見た時からずっと好きだったんだ」
 テンマは急に気恥ずかしくなり、ヨハンの背中に回した右腕に力を込める。ヨハンは再び上体を起こすと、テンマの唇に軽く口づけた。
「僕があなたに何も言わずに姿を消すなんてありえない。だって僕はあなたのものだもの」
 ヨハンの顔に浮かぶのは、あの微笑。もう彼の瞳に涙は見えなかった。
 二人は見つめ合い、自然にキスを交わしていく。身体を密着させ、角度を変えながら咥内を味わう。互いの息も荒くなった頃、ヨハンが唇を離した。
「……先生、勃ってる」
「き、君だって」
 言い返すテンマにヨハンはくすりと笑う。
「じゃあ抜いてあげる」
 ヨハンはテンマのスウェットパンツを下着ごと引きずり下ろし、自身も脱ぐと、互いの性器を擦り合わせた。既にどちらも硬く反り上がり、先走りに濡れている。
「んっ……これなら腕にも負担にならないでしょ?」
「あ……あぁっ……ヨハン……っ」
「はぁっ……先生、気持ちいい? 本当はね、ずっとこうしたかったんだ」
 ヨハンがテンマのTシャツをめくり上げ、片手で胸をまさぐる。テンマが声を上げ、身体を捩ると、ヨハンは再び唇を重ねてきた。先ほどよりも激しいキスに、テンマの息が漏れる。
「……ん、んんっ……ふ……っ」
 荒い呼吸でキスに応じながらも、テンマの脳裏にちらつくのは罪の意識。それを振り切り、ヨハンとの行為にのめり込んでいく。舌を絡ませ腰を揺らし、悦楽だけに身を委ねる。やがて絶頂に達すると、二人は同時に果てた。


 ――ああ、そうか。


 心地良い脱力感に浸り、テンマは確信にも似た思いを感じていた。再会した時から海にいるヨハンにどうしようもなく惹かれている、その理由。


 ――多分、彼が生まれ変わったような気がしたからだ。


 怪物の殻を割り、夕暮れの海を舞う羽化した蝶。

 願望がそう見せているだけかもしれないし、それがテンマの手術によってもたらされたなんて、ただの思い上がりなのかもしれない。


 それでもあの時、まっさらな彼に出会えて嬉しかったんだ――。



 翌朝。窓から差し込む光を浴びて、テンマは薄く目を開けた。こちらを見下ろすヨハンと目が合う。逆光を背負い、柔らかな金髪が陽の色に透けて輝いている。
「おはよう、先生」
「ん……おはよう」
 挨拶は返したものの、まだ微睡みの中にいるテンマに、ヨハンはちゅ、と額に口づけた。
「先にシャワーを浴びてくるから、先生はゆっくりしてて」
 ヨハンはベッドを降りると、寝室の隅に置いてあったテンマの鞄に目を向けた。
「ああ、この写真、先生が持っていたんだ」
 鞄の外ポケットに入れていた写真にヨハンが気づいたらしい。テンマもようやく身体を起こす。
「あ、ああ、珍しいなと思って。だけどヨハン、その写真、誰に撮ってもらったんだ?」
「誰だったかな。ああ、海岸を歩いていたら旅行者だかに撮られたんだ。もしかして写真を撮られたのまずかった? 念のために話をして譲ってもらったんだけど」
「いや、それなら構わないんだ。そうか、旅行者か」
 今まで何となくもやもやしていた心が晴れていく。自分でも意外なほど気になっていた件だったようだ。
「でもどうして先生が持っていたの」
「え。いやその、勝手に取るつもりはなかったんだ。ただ……」
「ただ?」
「……写真が気に入ったからだよ。あまり見ない表情をしてるから、何だか気になって。無断で持ち出してごめん」
「それはいいけど……それが気に入ったの?」
「……うん」
 テンマは顔が赤くなるのを自覚しつつ、頷いた。昨夜のほうがよほど恥ずかしいことを口にしていた気がするが、やはり慣れないものは慣れない。
「ならいいよ、その写真は先生が持ってて。でも……」
 ヨハンはテンマをじっと見つめる。
「ヨハン?」
「僕は先生の写真が欲しいかな」
「私の?」
「あなたがいなくて寂しい時に見返すのもいいかと思って」
 目を細めるヨハンにテンマはさらに頬を火照らせる。だが、ふとあることを思いつき、壁のハンガーに掛けているジャケットの内ポケットから手帳を取り出した。手帳に挟んでいた写真を一枚抜くと、ヨハンに手渡す。写真にはMSFや現地のスタッフ数人と共に、術衣の上に白衣を着たテンマが写っている。
「これでもいいかい? 派遣先の病院で撮ってもらったものだけど」
 ヨハンは写真を眺めた後、テンマの顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、先生。……ねえ、その写真の僕が何を考えていたか知りたくない?」
「え、うん」
 ヨハンはにこりと笑うとテンマの耳元に唇を寄せ、囁いた。


 ――テンマの耳が赤くなるまでそう時間はかからなかった。

<了>

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