―― ◆ ―― ◆ ――  ――


「プロデューサさんは、運命の人って信じますか?」
「運命、ですか?」
 相手を指名しておいてなんだけども、私としては独り言を言ったようなつもりだったので、まさか返事が返ってくるとは思わなかった。さっきから開いているだけで全然読んでいなかった手元のハードカバーの本を閉じた。彼は手持ちぶさたに万年筆をかちかちといじる。
 お人形の喫茶店をそのまま大きくしたような、小さくて古い喫茶店の、暖かい日差しが気持ちいい窓際の席。私も彼ももう随分と長い時間ぼーっとしていて、彼のエスプレッソも私のローズヒップもすっかり冷めてしまっていた。
「そうです。二人で一つの存在が、当然のように出会い、惹かれ合い、愛とともに永久を過ごすことです」
「ロマンチックを通り越してなんだかオカルトチックですね」
「プロデューサさんは素直じゃない、を通り越してなんだかニヒリストですね」
「ニヒリズムには運命論の側面もありますけどね」
「そんな諦めの極地に見える光景は好きじゃありません。そんなの、運命なんて言わない」
 そういえば、今日の午後は何かお仕事が入っていた気がする。けれど、そんな事はどうでもいい話だ。私も、彼もそれに気づかないふりをしている。もしかしたら彼は本当に忘れてしまっているのかもしれない。私たちに重要なのは、そういう表面的な問題ではないのだから。
「でもね、あずささん。全てを諦観した末に残ったただ一つの光が二人の愛、っていうなら、それはとてもロマンチックだとは思いませんか?」
「パンドーラーの箱の中で一番最後に残った災厄がなんだか知っていますか?」
「そうですねぇ」
「だからあなたは素直じゃないって言ってるんです」
「そうです、ねぇ」
「だからあなたは」
「俺は?」
 その先を言うのは酷だから何も私は言わない。それではただの八つ当たりだから。彼は万年筆をくるりと回して額に当てた。
 冷めた紅茶を一口飲む。香りも味も飛んでしまっていて、白湯を飲んでいるようだ。暖かい日差しの中で夢を見るように口に出しては消えていく会話をする。
「今日は暖かいですね」
「そうですね」
 まるで傷をなめ合う猫のようだ。彼も私も、互いに何も興味なんてないくせに、こうやってどうにか傷だけを癒そうとしている。
 傷さえ癒えればあるべき【日常】へ帰還できるのだと、そう勝手に信じ切っているのだ。錯覚しているんだ。
 なんと滑稽な事だろうか。ありもしない傷を癒してありもしない日常を求めているのだ。あるのは、当たり前のただ一つだけの事実だというのに、そんな事にさえ気づけない。
 だからその滑稽さに免じて、こうやって一休みするくらいは許して欲しい。認められない過去や未来からの逃避というのは、決して世間から見て褒められるものではない事はわかっている。半年前までの自分や彼であったら同じようにそれを非難しただろう。わかっている。
 そう、なにもかもわかっているんだ。わかった上で、許して欲しいんだ。
 けれど、誰に対して許しを請えばいいのか、それだけがさっぱりわからない。
「それで、運命の人って信じますか?」
「そんなの、わかりませんよ」
 近い未来に光をなくす猫と、近い過去に光りをなくした猫は、似ているようで全然違って、けれどこうやって同じ場所で身を寄せ合う。
 一番怖くて辛い今から身を守るように。
 たったひとつの言葉を探して。

 それが、私が光をなくした五年前の話だ。



we may cry




 ―― ○ ―― ○ ―― ○ ――


 空気が違う、というのは決して比喩ではない。いかなる化学成分の構成が私の感覚器官を刺激しているのかはわからないけど、数年ぶりに自分の生まれ育った国の地に降り立った瞬間、私はそれをはっきりと感じた。感情が高ぶって涙腺が刺激される。もしここが異国の臭いが多く混ざっている国際線のロビーでなかったら、実際に涙を流していることだったであろう。目が見えなくて良かったな、なんて少し申し訳ないことさえ思ってしまった。
 ちょんちょん、と私の腰を叩く感覚。私は彼女の肩に置いている手の指先で叩いて返事をする。小柄な彼女の細い肩は、けれどもとても安心する。
〈すごい、噂通りのエキゾチックな国ね〉
 北欧言語特有の透き通った、それでいてどこか間の抜けたような発音で興奮を伝えてくる。
〈ここでそんな風だったら、町の中に出たらあなた卒倒してしまうわ〉
 私も同じ国の言葉で返すと、彼女はくすくすと笑い出した。
〈それはすごい楽しみだわ。頭に枕をつけて出歩かないと〉
 北欧に渡ってから四年間、ずっと彼女が私の付き人であり、目であり、そして一番の友人だ。日本語も流暢に扱うことが出来る彼女だが、私との日常会話はほとんどをあちらの国の言葉でこなしている。私の今の語学力は、そんな彼女との会話によって、ほぼ100%養われた。彼女は国の中でも結構な田舎の出身で、しかも母親に南米の血が混ざっているらしい。なので喋る言語も相当なまっていて癖が強い。4年前、右も左もわからなかった――文字通り、わからなかったのだ――私は彼女の言葉だけを頼りにしていた。だから彼女と他の人では言葉が微妙に異なっているだなんて全然気づかなくてどれだけ苦労したことか。それを知った私が、少しだけ怒りながらその事実を問い詰めたとき、彼女は大笑いしながら私の肩をばしんばしんと叩いた。
《その違いが自分でわかるようになったのなら合格。あなたは合格よ、あずさ》
 なにが合格なのか。私にはさっぱりわからなかったが、しかし認めてもらえたことがなんだかとても嬉しかった。そしてそのとき、彼女と初めて友達に慣れた気がしたのだ。
〈それで、あなたの彼氏が迎えに来てくれるのだっけ?〉
 ひとつため息。しかし友達いえど、いや友達だからか、南米の血をひく彼女のあけすけな態度には疲れるときもある。彼女はもう一ヶ月もこの冗談ばかりを使っている。いい加減にあしらうのも飽きてきた。まぁ、心地よい疲れではあるのだけど。
〈だからそういう人ではないってば〉
〈またまた。何年も待ってくれて、そして空港まで迎えに来てくれる男でしょう? 大事にしなきゃ。罰が当たるわよ。私から〉
〈あなたならそういうのは、私よりずっと不便はないでしょう?〉
〈男は量より質よ、あずさ。私にはそれだけ待っていてくれて、尚かつあちらから会いに来てくれる男なんて一人もいないわ。日本人の彼氏を探そうかしら〉
 日本人が全員彼のようになった世界を想像してみる。……それはちょっと残念な世界だった。
〈そういう問題じゃなんいじゃないかしら〉
〈つまり?〉
〈あなたの問題〉
 彼女はまた大声で笑った。ちょっと恥ずかしいぐらいだ。
〈私は悪い問題で、あなたの彼氏は良い問題、ってわけね〉
〈彼氏じゃありません。仕事仲間です〉
〈なるほど、オフィス・ラブって奴ね〉
〈もういいわ。……どうでも〉
 ごめんごめん、拗ねないで、と彼女は私の腕に抱きついた。小柄な彼女の大げさなボディランゲージには、同性なのに時々どきっとしてしまう。誤魔化すようにずれかけた大きめのサングラスを戻すそぶりをする。
〈あなたが好きなのは、えーっと〉
〈運命〉
〈そう、ディスティニー・ラブ、よね〉
 運命。
 私が彼女に教えて貰った、初めての向こうの国の言葉だ。今でもその言葉が大好きだ。
 昔、その言葉についてぼんやりと語り合った彼はどうだろうか。まだ、覚えているだろうか。
〈その運命でもって、彼にはあなたを見つけて貰わないとね。でもわかるかしら、あなたこんなに美人になったんだもの〉
〈大丈夫。彼はね、迷子になった私を見つけることだけは上手なの〉
 私は、斜め後ろを振り向いて、ふわりと笑顔を浮かべた。
「ね、プロデューサさん」
 私の後ろに立っていたそのひどく懐かしい気配は、けれど何も反応せずにじっと立ちつくしている。もちろん絶対の確信はあったのだけど、流石にちょっと不安になって再度問いかける。
「プロデューサ、さん?」
「はい。俺です。三浦さん」
 よかった、と安堵の息をつく。人間違いだったら恥ずかしくてこのまま飛行機に乗ってとんぼ返りしてしまうところだった。
「俺の事がよくわかりましたね」
「それは、もちろん。プロデューサさんの事がわからない訳ないじゃないですか」
 そういってくれれば嬉しいですけど、と彼はため息をついた。
「本当に驚きましたよ。心臓に悪いからやめてください、こういうのは」
「そんなこと言って。ばれてなければ自分が驚かすつもりだったくせに」
「……ありませんよ、そんなこと」
 うふふ、と思わず声が漏れる。彼は、私がこちらにいたときの最後のプロデューサーだ。久しぶりにあったのに、まるでついさっきまで一緒にいたような会話が心地よい。時間も場所も超えた共有感が、私たちを満たしてくれる。
「4年ぶりですね。お久しぶりです、プロデューサさん」
「お久しぶりです、三浦さん。ますます美しくなりましたね」
「下手なお世辞が上手になりましたね、プロデューサさん」
「それはどうも。あっちはどうでしたか」
「うぅん、えっと。北欧ってね、すっごく寒いんですね。私、びっくりしてしまいました」
「手紙にはいつも寒い寒いばっかり書いていますものね」
「だってそれ以外書くことがないんだもの」
 ダークブラウンのマフラーに顔を埋めるように肩を竦める。
「何を言ってるんですか……。向こうでの歌の反響、こちらまで届いていますよ。すごい人気だって。それに煽られてこっちでも人気が再熱です」
「それほどでもないですけど。おかげさまで、この凱旋帰国です」
 ちょいちょい、と私の肩をつつく感触。
〈ちょっと私を放っておかないでくれる?〉
〈放っておかないでって、入ってくればいいのに。いつもの無遠慮な会話術はどうしたの?〉
〈あなた随分と可愛くなくなったわね〉
〈それはもう、言葉の師匠が師匠ですから〉
〈年も年だものね〉
〈お互いにね〉
 それで、と彼女が私の腰を叩く。
〈あんな甘ーい空気に割り込めるわけないじゃない。私だって空気くらい読むわ〉
〈甘くなんてありません〉
〈嘘。さっきから熟年夫婦みたいな雰囲気じゃない〉
 彼女としては皮肉を込めたつもりの熟年夫婦という言葉が、しかし私には一定の積み上げた事実に対しての賞賛にしか聞こえなかった。まぁつまり有り体に言ってしまえば、照れる。
 そんな私の様子を見た彼女は何を勘違いしたのか、オーケーオーケーと呟く。そして私から離れて彼に話しかける。
「やぁプロデューサ!」
「あ、どうも初めまして。蕪野と申します」
「うん、よろしくプロデューサ!」
「いや、ですから蕪野と――」
「オーケーオーケー、愛称ってすてきよね。わかるワ。私も出会う男全員に愛称をつけているもの。その方が覚えやすくていいワ。まぁどっちにしろ片っ端から忘れていくんだけど」
「は、はぁ……」
「じゃぁ、そういう事で、後はよろしくネ」
 そういうが早いか彼女は私のスーツケースをぱっと奪い去ってしまう。
「え、あの?」
「何処いくんですか?」
「もちろん、ホテルよ。その後観光」
「いやこの後はスケジュールの打ち合わせをするっていう予定では……」
「大丈夫大丈夫。どうせメールでやりとりが済んでいることの確認でしょ? じゃあ完璧」
「いやだからこその確認を」
「二人とも!」
 大きな声をあげる。そしてちっちっと口を鳴らす。
「いいことを教えてあゲル。あのね、『恋する二人の炎は対岸の火事のように熱くて犬も食わない』……この国のことわざよ」
「ねぇよ」
「それじゃ! あずさ!」
 私の両肩を強く叩く。痛い。
〈がんばりなさい。大丈夫、昼も夜も忘れてしまうくらい燃えてしまっても、こっちは何とかするわ。任せなさい〉
 じゃあね! と一声残し、がらがらと二人分のスーツケースが引きずられていく音が聞こえる。残された彼と私は呆然としたまま立ちつくす。
「……えーっと、なんだったんですか、今のは」
「ごめんなさい、本人は上手いこと言ったつもりなんでしょうけど、私にもさっぱりわからなくって」
「……なんというか、元気のいい人ですね」
「ごめんなさい。根はいい人なんです。本当に。もうお恥ずかしい」
 もうなんだか恥ずかしくて何故か私の頬が熱くなる。
 話題を切り替えようと、わざとらしくひとつ咳払いをする。
「それで、今日はどうするんですか?」
 日本にいる間は彼が私の目となってくれる付き人だ。むしろ、彼ならば、私の本物の目よりもずっと素敵な世界を見せてくれるだろう。
 なんだかいきなり予定が狂ってしまいましたけど、と彼はぼやいた。
「任せてください。今晩のコンサートの準備はほとんど出来ているので、とりあえずそれまでは観光でも。せっかく久しぶりの日本ですから」
「はい。それでは、エスコートよろしくお願いします」
 私は彼がいる――と思われる方向へゆっくりと右手を差し出した。一瞬だけ遅れて、懐かしい感触が私の手を包む。男の人らしいごつごつとした、彼女とはまた違う安心感がある、力強くて、どこまでもいつまでも守ってくれそうな左手だ。それは今すぐにでも甘えそうになってしまいそうな魅力を秘めていて、だからこそ弱い私にはそれが辛かった。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
 2、3歩くらい歩いて、彼が立ち止まる。ちょっと遅れて私も止まる。
「言い忘れてました」
「何をですか?」
「おかえりなさい」
 思わずうふふと笑ってしまう。
「さっきからそれが言いたくてもじもじしてたんですか? もう」
「……違いますよ、今さっき思い出しただけです。本当に」
「本当に?」
「歩きましょう、いきますよ」
 彼が再び歩き出す。その左手につられて私も脚を動かす。
 一歩進むごとに、だんだんと懐かしい空気の濃度が上がっていく。あまりの濃さに思わずむせてしまうそうになる。感覚器官に伝わる一粒一粒の電気情報が懐かしくてたまらない。
「でもやっぱり、景色が見たかったです」
 私がそんな反応の困る呟きをもらすと、彼の手が少しだけこわばった。こうやって彼が動揺するところを観察するのが、私はとても大好きだ。この人が男らしかったり、優しかったり、弱かったりするのを感じるだけで、私はこうやって浅はかな征服欲を得ることが出来る。意地が悪いなぁとは自分でも思う。
 でも仕方ない。これだって、愛の形だとは、そうは思わないだろうか。
 傷ついた弱い猫が、もっと傷ついた弱い猫をいじめてその傷を癒すみたいに。
 少なくとも五年前はそうだった。今はどうだろうか。どうなるのだろうか。

 もう一度言っておこう
 私の目は、比喩ではなく、本当にもう光を見ることが出来ないのだ。



 ―― ● ―― ● ―― ● ――


「わぁ、懐かしい!」
 レッスンルームの中に入ったとたん、私はおもわず大きな声を上げてしまった。新しいプロデューサと顔合わせの後、旧社屋を案内してもらっている途中の事だ。久しぶりの旧社屋の景色に、年甲斐もなくはしゃいでしまう。同窓会で小学校の校舎に忍び込むような、ああいう気分だ。
「ほら、このステレオ。もう私が入った頃からあったんですよ」
 古くて大きくて重いステレオに駆け寄って、その頭をなでる。埃なんかは全然積もってなくて、みんなから可愛がられていることがよくわかる。この部屋自体そうだ。結構古い建物で、中も散らかっているのに、全然汚さがない。掃除がしっかりされているとか、空調が一定に保たれているとかそういう表面的なことではなく。あるべきものがあるという安心感。ノスタルジー、とでも言えばいいのだろうか。
「うふふ、この壁の傷」
 中腰になり、少しめくれているベージュ色の壁紙をそっとなでる。私の友達がかんしゃくを起こし蹴り飛ばしてついた傷だ。彼女は今もここで事務員をしているのだろうか。
 アイドルという職業は流行と共に生きて、流行とともに死んでいく職業だ。その所為かもしれないけど、こうやって昔から変わらないものを愛でることが、たまらなく心地よい事がある。
「あ、そういえば。そこの洗面台。前は水の出が悪かったのだけど!」
「もうとっくの昔に修理されましたよ」
 そうですか、と肩を落とす。当たり前か。ここだって生き残っていくのに必死なんだ。いつまでも昔のままではいられない。
「でも、なんだか楽しい。いろいろな臭いがあって、まるで古い友達と再会したみたい。ううん、実際再会しているんですね、私」
 目を開いて、ぐるりと部屋の中を見渡す。全ての情報が、形が、光が、愛おしくて仕方がない。だからこそ、こんなに胸が痛む。
 入り口に、まだ私の新しいプロデューサが突っ立っていた。心ここにあらず、吹けばどこかへ飛んでしまいそうだ。私と顔合わせしたときもずっと上の空。なんなんだろう、この人は。
「なにやってるんですか、もう」
 私は人差し指を左右に振る。彼は大きなため息をついた。
「あなたは、明るいですね。……その、そんな状況で」
「はい。あと一年で目が見えなくなるなら、少しでも周りの景色を見ておきたいなって」
 嘘だ。
 空元気、やせ我慢なのは自分でもわかっている。当たり前だ。あと一年で失明すると言われて、不安にならない人間なんているものか。不安で不安で、自分が今どこにいるのかもわからなくなって。もう何週間、しっかりとした睡眠をとれていないことだろう。毛布の中でがたがたと震え、涙を流し、嗚咽をあげるだけの時間と、浅い睡眠の中に現れる悪夢を交互に繰り返すだけの夜。それでも朝になれば、身体だけはアイドルの私は、抜け殻のまま仕事をこなす。
 その内壊れてしまうかもしれない。もう、壊れているのかもしれない。だけど、私はもうどうしようもなくて、タイムリミットは刻々と目の前に迫ってきている。
 そして私が選んだのは、今の事務所の下部組織――旧社屋への転属。あと一年で治療のため(世間的には留学のためと発表する予定だ)に外国へ飛び長期滞在する。それまでの間は静かな、出来るだけマスコミの少ない場所で仕事をしたい、という申し入れ。
 もちろん嘘だ。逃げたかっただけだ。何かから。逃げられるわけがないのに。こうやっている今も、視力は落ち、死角は増えていっているのだから。
 人はぎりぎりいっぱいに追いやられると、昔の充実していた子供時代のことを夢に見るらしい。私の今の行動も、きっとそういう夢の存在だ。
「そういうあなたは暗いですね」
 普通はこんなおかしなアイドルがいたら、死に物狂いでどうにかしようとするのがプロデューサというものだろう。まぁ、今の私にとってはそういう事をされた方が辛いのだけど。
「出戻りとはいえ、Aランクアイドルのプロデュースですよ。名前を売るチャンスじゃないですか」
 自己卑下たっぷりの台詞を吐く私に、それでも彼は興味がないようだった。
「……すいません、もう少女だなんていえない年の、しかもあと一年で引退することが決まっているポンコツアイドルですものね」
 彼にしてみれば、もう投資する価値のない名前だけのAランクアイドルをあてがわれた形だ。形式上は信頼されての待遇だが、実際はなんの将来性のない仕事。逆に言えば、それを壊すだけの力を期待されてのことかもしれないが、果たしてどちらなのか。――まぁ、今の彼の態度を見ればわかる。
「何か、辛いことがあったんですね」
 きっと、どうでもいいような話だ。この手の人間はいつだってそう、他の人から見ればどうだっていいことで落ち込んで、泣いて、叫ぶんだ。周りの人間はいつもあきれ果てているのだけど、本人はいっこうに気づきもしない。時間がたって、ようやく気づく。自分はばかだったなぁ、と。
 私の目のことだって、他の人にしてみればどうでもいいことなのかもしれない。いや、そうだったらいいなぁと強く思う。何年かして、また彼と再会したときに、私たちは馬鹿だったね、と言い合えるような事だったらいいなぁ、と思う。
「……俺は」
「いいですよ、聞きません」
 手を後ろに組んで、彼に背を向ける。
「何があったかなんて、聞きません。それは、私にとって関係のない、どうでもいい話です」
 私はそんな冷たい言葉を言いはなった。
「…………優しいんですね、あなたは」
 けれど彼は、そんな見当違いな言葉を返した。私はただ、他人のことを考える余裕のないだけだ。もうこうやって無理して笑顔を作って愛想良く話す事を今すぐ止めてしまいたいくらいに。
「優しいだなんて、おかしな人」
「それがあなたじゃないですか。老人にも子供にも好かれる、包み込むような優しさを持った年上系アイドルの三浦あずさでしょう?」
「あなたの方が年上なのに、年上系アイドルなんて、それもおかしな話」
「あなたの方が先輩ですから」
 私の名前は三浦あずさ。穏和で気遣いのきく、老若男女に好かれるアイドルだ。子供が自分から寄ってくるような、慈愛に満ちた女性。それが、私のキャラクタだ。
 それが、私だ。
「あなたは、自分がどういう人間か教えてくれないんですか?」
「俺のことは……別に。話すようなことは特にありませんよ。あなたに比べれば本当にちっぽけな人間ですから」
 振り返って、再び彼の顔を見つめる。その様子は夜も眠れずに泣き声ばかり上げているどこかの誰かと似ている。彼もきっと他人のことを考える余裕なんてないのだ。自分が誰だか、自分がどうすればいいのかわからないんだ。
 ただただ、放っておいて欲しいんだ。一人にして欲しいんだ。声をかけずにいて欲しいんだ。
「――そんなの、誰だってそうですよ。私だって」
 けれど、そう。それならば。
 作った笑顔を止めると、自然と私が一人でいるときの憂いた顔になった。他人には絶対見せないような、アイドル三浦あずさらしからぬ表情だ。
「プロデューサさん」
「はい」
 彼に右手をさしのべる。
「あなたがこんな私のことを優しい、だなんて言ってくれるのであれば、私はこの一年であなたに無関心を送りましょう。あなたの望むだけ」
 差し出した右手を、自分の胸に当てる。
「その代わり、この一年、私に無関心をください」
 自分のことで精一杯で、他人のことを考える余裕がないのならば、それはとても都合が良い。互いが互いを興味持たず、けれど社会的に必要な利益だけ求めて一緒にいよう。私たちは、そうやって支え合おう。
「……つまり俺は、何をすればいいんですか?」
「何も」
 洗面台に歩み寄り、その蛇口をなでる。
「何もしなければいいんです」


 そしてそれからいくつかの余話の後、私は深い眠りを得ることが出来るようになり、彼の視線は随分と前を向くようになった。
 その代わり、私のアイドルランクは急降下したし、私のプロデュースを一年間さぼりにさぼった彼は、社内での信用を失った。前年で得た信用をなくして結局またスタートラインに戻ったのだ。そう、全てリセットして、またニューゲーム、というわけだ。
 もちろんゲームではないのだから全てがなかった事になる訳ではない。私の目は見えなくなったし、彼がそこからプロデューサとして地位を上げることは厳しくなっている事だろう。
 しかしこれだけは自信を持って言える。
 私は彼に感謝しているし、傲慢な物言いに聞こえるかもしれないが、同じだけ彼は私に感謝しているだろう。



 ―― ○ ―― ○ ―― ○ ――


「うふふふっなにそれ、おかしい」
「そんなに笑わないでくださいよ、こっちは本当に洒落にならなかったんですから」
 都会とは思えない重厚な葉擦れと鳥の声。所々霜柱が生えていて、その上を歩くとしゃくしゃくと気持ちのいい感触。冬になるとすぐ地面が凍り雪が降るあの国では味わえない快感だ。そして、私を導いてくれるこの右手の温かい感触も。
 プロデューサさんが案内してくれたのは都内にある広い自然公園だった。確かここは私がこっちにいたころはまだ建設中だったはずだ。
『平日のこの時間はあまり人も多くなくて、ゆっくり出来ると思います。こういう所を散歩するの、三浦さん好きだったなと思って』
 それに、と彼はいたずらっぽく続ける。
『本社の方には明日以降、嫌でも、というか、嫌になるほど顔を出さなければいけないんですし』
 またそんな喧嘩を売るようなことを。まぁ、そんな人とは違う優先順位を最終的に選んでしまう彼だからこそ、私は今回の付き人に指名したのだけど。事務所だって、悪名高き私と彼の組み合わせだなんて了承したくはなかった事だろう。けど、日本だけでなく海外でも知名度が上がった私には私自身が思ってたよりも発言力があるらしく、あっさり要求が通ってしまった。海外に追いやったはずの旬の過ぎたアイドルがカムバックしてくるだなんて果たして誰が想像していただろうか。正直、私だって想像していなかった。しかしまぁ、結局こうやって仕事をさぼってデートに繰り出しているのだから、彼らの懸念通り、私たちの思惑通りといったところだろうか。なんだ、付き人の彼女の事を私たちは笑えないじゃないか。
「だって、そんな、深夜にアイドルが公園でゲリラライブ始めるだなんて、うふふ」
「ほんと、そんなって感じですよ。俺にとっても」
 しかし、唐変木で甲斐性のない彼がどうしてこんな公園を案内できるほどに詳しいのか、と疑問に思って気になって訪ねてみた。そしてまぁ、その彼の答えはなんとも冗談としか思えないもので。
 彼のプロデュースしているトリオグループが、同じ事務所のトップアイドルと深夜に即興で歌を歌い始めたというのだ。しかも無許可で。そんな無茶な、という感想が一番先に思い浮かぶ。そしてそれを見て慌てつつも、これはどうしようもないと諦めてしまう彼の姿を簡単に思い浮かべることが出来た。
「でもそれであなたがプロデュースしている娘達の知名度が上がったんですよね。良かったじゃないですか」
「……結果的には、ですけど。あまり認めたくはないことでもあります」
「うふふ。世の中なにがどう転ぶかわかったものではありませんね」
「あなたが言うと説得力がありますね」
「笑ってもいいんですよ」
「…………欧米仕込みのジョークは俺には重すぎます」
 この人が重く考えすぎなだけだ。今の私にとっては軽くて軽くて、風船みたいに空に向かって飛んでいってしまうそうな事だ。
「こっちも楽しそう。旧社屋の方はどうですか?」
「なんとかこうにか。相変わらず騒がしいような、やる気が足りないような」
「律子さんは?」
「あいつはやりたいことをやれるようになりましたよ」
「じゃあプロデューサに? まぁ素敵。きっときっちりかっちり、かっこいいプロデュースをしているんでしょうね」
「俺よりね」
 少し手の握りが強くなる。おかしくなって私はその手を握り替えした。
「なに拗ねてるんですか」
「なにも。双海妹は本社へ、姉は引退して進学を目指して猛勉強中です。時々、泣き言のメールが入ってきます」
「あぁ、私のところにも来ました」
「…………あいつ」
 私と彼と共通の友人で、今も旧社屋にいるような人間はそれほど多くはないのだろう。みんなが前向きな意味で去っているようなら、私は全然寂しくなんかないのだけど。そうは綺麗に運ばないからこそ世の中の歯車はぐらりぐらりと回り続けるし、私はこうやって生きていられるんだとも思う。
「他には?」
「そうですね――」
 そのとき、軽快な電子音が聞こえてきた。すいません、と言って彼は私と手をつないでいない右手で、コートの下のスーツを探る。おかしな体勢が難儀なようで、もぞもぞと身体を動かし続ける。仕方ないなぁこの人は、と私は左手で彼のポケットに手を入れる。視界の範囲外を手探りで探すという事は、私がこの数年間で格段に向上した技術の内の一つだ。
 ポケットの中は安心するような暖かさ。時々彼の手とちょこんとふれあって、なんだかくすぐったかった。彼が私の行為――好意に戸惑っている間に、先に携帯電話を見つける。そのまま彼の手とじゃれ合うか、携帯電話を差し出すかちょっとだけ迷ってしまう。――まぁ、迷うだなんて、私はなんて悪い女なのだろうか。
 ひょいと震える携帯を取り出し、彼に差し出す。また少し戸惑ってから、どうも、と彼はそれを受け取った。
「もしもし。あぁ千早」
 視覚以外の感覚がびっくりするくらい鋭くなった今の私には、電話の向こうのかわいらしい声もはっきりと聞こえてしまう。それはちょっとはしたないな、と思って、出来るだけそちらに意識を向けないようにする。
「おう、おう。まぁ、だからそっちは全部雪歩に任せてあるから。そう、うん。雪歩の指示に従ってくれればいいよ。なにかあれば後から報告してくれればそれでいい」
 短いやりとりを交わして、彼は通話を終わらせた。担当アイドルですか? と問うと、彼は肯定した。
「ちょっとだけ問題があったみたいで」
「いいんですか? それなのにこんな所にいて」
「それくらい自分たちで乗り越えられないような奴に、上は目指せませんよ」
 彼は気だるげな声でそう返す。私のよく知っている、いつだってやる気のない彼の言いぐさ。
 だけど。
「……なに笑ってるんですか、三浦さん」
「うふふ、いえ、なんでも」
 声とは反対に、緊張で強ばっている彼の左手を握り替えした。そんなに自分の子達が心配だというのなら、そう言えばいいのに。男の子って、本当に意地っ張りで見栄っ張りだ。
「プロデューサさん、ちょっと変わったなって」
「そうですか?」
「そうですよ。プロデュースにも熱心なようですし」
 私の知っているあなたは、そんなに自分以外の事柄に気を配るような人ではなかった。いや、もしかしたら元々はそんな人だったのかもしれない。私と一緒にいた短い間だけ、彼が彼らしくない彼であっただけなのかもしれない。私にはわからないことだ。そして同時に、嫉妬のような喜びのような複雑な感情を抱いている自分に気づく。
「それだったら三浦さんだって――」
「その三浦さんっていうの」
 彼の言葉を遮り、肩をとすんと当てる。ずっと気になっていたのだけど。
「やめませんか?」
「……いや、その」
 うーあーとなにやら彼が呻く。
「私は、プロデューサさん、って呼んでるんですよ?」
 これは小さな意地の話で。小さな小さな。それはそれは小さな彼と私の意地の問題だ。
 たぶんそもそも、全部、なにからなにまで、意地の問題、なんだと思う。

 ――あずささん。

 小さな小さな。それはそれは小さな彼のつぶやきに、私は一握りの勝利感とお腹一杯の満足感を得て、それをゆっくりと噛みしめた。
 それでですね、と彼は少し早口で続ける。
「空港の時ですけど、あんなに上機嫌に話しているみ――あずささんは、初めて見ましたよ」
「そうですか? あなたと一緒にいる私って、いつもそんなに不機嫌でしたか?」
「まぁ、不機嫌というよりも、周りに対して興味が薄いというか。達観しているというか。これは失礼な言い方になりますけど――」
 けど? と首をかしげる。
「年寄り、とかね」
 とても言いにくそうにしている彼の声に、私は勢いよく吹き出してしまった。なるほど、そうかもしれない。自分の道をばっさりと断ち切られてしまったような私の心境は、まさに老い先短い老人といったところだったであろう。
 しかし私の場合は、あくまで『ような』であり、実際はこの通り道はあって、そこを這い蹲るように進み、そして今こうやって再び彼の道と交わったのだ。
「うふふ。じゃあさっきの私は、女学生みたいだった、という感じでしょうか」
「あぁ、たしかにそんな感じです。……まぁ、最近の女学生は『女学生』だなんて言い方はしないかなと思いますけど」
「四年も離れていたんです。それくらい変わります。むしろ、変わらない方がおかしいですよ」
「そういうもんですかね。自分では変わっている感じなんかしないんですけど。あずささんに言われるということは、やっぱり変わっているんでしょうね、お互い」
 彼は鼻で息をついた。
「これが子供だったら、見た目の変化でわかりやすいんですけどね」
「見た目は変わってませんか?」
「はい。相変わらずお美しいです」
「やっぱり、下手なお世辞が上手くなりましたね」
 二つの笑い声が公園の木々に反射して、どこか郷愁を感じる音が響いた。
 いつの間にか木々のざわめきが聞こえなくなる。常緑樹林から落葉樹のそれに変わったのだろう。どこか懐かしい腐乱臭が薄く鼻をつく。きっと銀杏並木だ。そういえば旧社屋の裏庭にも一本だけ立派なものが立っていた。毎年晩秋になるとその強烈な臭いでみんなうんざりするのだ。
 それだって、思い出の一つだ、悪い思い出も、辛い思い出も、なんでもない思い出も、研がれて、削がれて、発酵して、最終的には良い思い出になってしまう。
 【時間が解決してくれる】
 それは昔、どこか祈りにも似た言葉だった。いまでは、経験則によって得られたただの事実だ。
「そう、彼女はどうしてますか?」
「彼女?」
「はい。事務員の――」
 私はぴたりと足を止めた。それに合わせて私と手を繋いでいる彼も立ち止まる。
「…………どうしました?」
 しっ、と私は人差し指を唇の前に立てる。
「子供の泣き声です」
 彼は少しだけ押し黙ってから、俺には聞こえませんね、と言った。
 確かにその細い声は、銀杏の枝葉と地面を覆う残雪に染み込んでしまいとても弱々しく聞こえる。けれど、間違いない。これは小さい子供の、しかも助けを求めるような泣き声だ。
「ほら、あっちから」
「うーん。やっぱり俺には聞こえま――ってあぁ! 待って下さいあずささん! 俺が前を歩きますから!」
 私が指示する方向へとプロデューサさんが歩みを進める。音の方向へと真っ直ぐ歩く訳にもいかなくて、右に行ったり左に行ったり、登ったり下がったり道を探しながら泣き声の主へと近づいていく。もし目が見えていたとしても、私一人だったら間違いなく道に迷ってしまっていただろう。
 ――彼がいないと、私は安心して迷子になることも出来ないのだ。
 5段しかない土の階段を気をつけながら登った所で立ち止まる。音の反響からして、空が見え、周りが開けた広場のような場所だ。泣き声はもう、すぐ目の前から聞こえてくる。
「誰かいますか?」
「はい。ベンチに小さな男の子が座ってますね――ってあぁもうだからあずささん先に行かないで下さいってば」
 鼻をすする音が聞こえるすぐそばまで近づき、中腰になる。サングラスを外して微笑みかけた。
「こんにちは」
 気後れすることなく声をかける。目が弱くなると外界と接するのに臆病になるか、もしくは逆に極端に積極的になるらしいけど、私はどうやら後者だったらしい。絶対に前者だろうと思っていたのだけど、実際になってみないとわからないものだ。おすすめ――はしないけれども、まぁ、こうやって新しい自分は大なり小なり発掘されていくわけだ。
 そんな私の閾値の低い勇気など知るよしもなく、泣いている子供はえぐえぐと泣き声を上げたまま反応してくれない。
「おい、大丈夫か」
 彼はなんだか扱いに困ってる感じだ。私は顔がくっついてしまうくらいに前に乗り出した。
「泣かないで。せっかく素敵なおめめを持っているんだから、前を向いて」
 泣き声がとまり、代わりに鼻をずるずるとすする音に変わる。肩にかけていたバッグからハンカチを取り出す。確か薄いピンク色をしていたはずだ。それを目の前に差し出すのだけど、その子は手に取ってくれそうにない。私は諦めて、自分でハンカチをその子の顔へ優しく押しつける。思ってたよりも小さくて柔らかい顔に少し驚く。傷つけないよう、優しく優しく、顔を拭いてあげる。涙と涎と鼻水でぐしゃぐしゃになったハンカチを丸めて、躊躇なくぽいと鞄の中へ突っ込む。そして両手で男の子の頬を包む。
「ね、笑って?」
 逡巡するように何度か息を吸ったり飲んだりする音の後、ようやく小さなつぶやき声が聞こえる。
「…………あり、がと」
「どういたしまして」
 どんな時でもお礼を言えるのは、優しい人間の証拠だ。大人だって出来ない人が大勢いる。かくいう私も、そんなに自信がない。
「で、どうしてこんな所で一人で泣いてたんだ? 迷子か?」
 頭の上からプロデューサさんの声が落ちてくる。男の子はむっとしたように言い返す。
「子供じゃないんだから迷子になんかなったりしない!」
 ……ごめんなさい、と謝りたくなってきた。
「ですってよ、あずささん?」
「わ、私だって今はですね!」
「はいはい。で、じゃあなんで泣いてたんだ?」
 男の子はまたぷいと黙ってしまう。けれど私たちの待っている様子を感じてかおずおずと口を開く。
「お、お父さんとお母さんが、迷子になっちゃった、から」
「あらまぁ」
 プロデューサさんは大きくため息をついた。
「だからそれはお前が迷子になったんだろうが」
「ちがう! ちがうの!」
「あのなぁ」
「プロデューサさん?」
「はい?」
「決めつけは良くありませんよ。迷子になる大人だっています」
 そうだそうだ、と男の子が援護射撃を送ると、彼はまたため息をついたのだった。



 ―― ● ―― ● ――  ――


 声変わり前の声というのはよく響く。事務所の裏庭で遊んでいる小さなアイドル達の声がこの5階にまで届いてくる。人によっては癒されると言うだろう。また人によっては煩わしいと不満を零すだろう。そして今の私とっては、どちらでもなく、ただただ興味のない音だ。
 子供達は大きな銀杏の木の周りを走り回っている。色が変わり、落ち葉が積もり始めてくると、その木はいつもに増して格好の遊び場になる。そして枯れ葉と泥と擦り傷で汚れた姿で室内に戻ってきて満面の笑みを浮かべては、事務所の大人達にため息をつかれる。私が本社に上がる前、ここにいた数年前と何も変わっていない景色だ。ため息をつかれていた子供が、つく側の大人に変わったりはしているけど。
「子供は何も考えてなさそうでいいよなぁ」
 彼が窓際に肘を乗せ、頬杖をついてぼうっと子供達を見下ろす。秋風が窓から入って私の読んでいる本の頁を勝手にめくろうとするので、手で軽く押さえた。
「毎日が楽しそうだ。悩みもなく、遊んで、笑って、たまに叱られて」
「子供だって、色々考えていますよ」
 そうですかね、と彼は返した。
「じゃあプロデューサさんは、子供の頃は何も悩みがなかったんですか?」
「そりゃあ、ありましたけど。でも、今にしてみればちっぽけな悩みですよ」
「でも、子供の頃は大きな悩みだったんですよね」
 悩みなんてそんなものだ。無駄に座り心地の良い高価な椅子に座っている私はページをめくる。
「プロデューサさんが今まで担当してきたアイドルの子達は、何も考えていませんでしたか?」
 彼は口をつぐみ、子供達が跳んだりはねたりしている様子をじっと見つめた。
 ――やっぱり、いろいろ考えていたのかなぁ
 そう彼が呟いた気がしたけど、はじけるような子供達の笑い声によってそれはあっさりかき消されてしまった。
 芸能事務所としての機能がもうほとんど本社へ移動した今、この旧社屋には低ランクアイドル、または候補生の育成としての機能しかない。もちろんそれは事務所の安定した成長にとって最も重要なファクターの1つではある。しかし、この旧社屋単体で見た場合、人材や資金を投入した分だけに見合うリターンがあるかというと、残念ながらまるでない。結果、ここの設備はどんどん劣化していくし、人も減っていく。今はもう主さえ配属されていない隣の室長室や、事務室に隣接された会議室にその役目を取って代わられたこの応接室が良い例だ。
 そしておかげさまで、誰も人が寄らないこの5階の部屋は、私と彼の秘密基地になっている。ほどよく離れた道路からの車の音や、階下から聞こえるアイドル達の話し声、少しだけ近くなった空の風の音がちょうど良いBGMだ。
 それを聞きながらこうして今日も、サボタージュをしてぼうっと時間を過ごしている。
「まだその本を読んでるんですね」
 彼がいつの間にか横目で私の方を見ていた。そうですね、と私は答える。
「私、本を読むのが遅くて。ちょっと読んだら、話がわからなくなってしまって少し前のページを読み直して。でも今度はどこまで読んだかわからなくなってしまって。結局進んだり戻ったり。戻ったり進んだり」
 そうしていたらいつまでたっても読み終わらないんです、と肩を竦める。彼はそうですか、と微妙な笑みを浮かべた。
「何を読んでるんですか」
 ハードカバーの表紙を彼の方へ見せる。あぁ、と彼は納得したように頷いた。有名なフランスの児童文学だ。まったくもって今更、という感じだが、そういえば今まで読んでいなかったな、と気づいたのが一年以上前。その頃はまだアイドル業が忙しくて、手元に常に置いてはいたのだけど全く読む暇がなかった。空き時間に少しずつ読んではみるが、次に読む時間が出来ても以前何処まで読んだか覚えていない。結局進んだり戻ったり。戻ったり進んだり。時間さえあれば一息で読んでしまうのになぁ、と思ったものだ。
 しかし、いざ実際こうやって時間が出来ても、一気に読んでしまうことは出来なかった。忙しかった頃の癖で本を読むのが苦手になってしまったのか、もしくは私は元々こんな風に読む人間だったのかもしれない。
「プロデューサさんは読んだことありますか?」
「いえ、本はまったく読まないんで」
「あらまぁ」
「なんで、その本を?」
 目が見えなくれば外部から情報を得る手段は極端に減るが、しかし読書は出来る。だから私が今最優先で記憶に納めるべきは、書物からの視覚情報ではなく、例えば雄大な山河の景色であったり、現代映画の礎となった古典名作であったり、何物にも代え難い家族や友人の顔であったり、そういうものを見るべきなのではないかと、自分でも思う。けれど。
「読み終わってなかったから」
 本の表紙の装丁を確かめるように優しく撫でる。
「この本を買ったはいいけど全然読み終わってなかったので。最後まで読んでおいてあげたいなって」
 はぁ、と彼がまたどうでも良さそうに返事をする。事実、どうでもいいんだろう。
「そうですか」
「えぇ、そうなんです」
 そこで会話が終わる。彼と私の会話長続きはしない。キャッチボールではなく、それぞれが勝手に壁当てをしているというだけだ。それが、非情に安心する。
 再び本に視線を落とす。彼との会話の所為でまた何処まで読んだかわからなくなってしまった。一頁戻して、またそこから読み進める。
 ぺらぺらと読み進めていくと、だんだんと本の世界へ没入していった。なるほど、読書もダンスや歌と同じ、テンポが重要なのだ。私は少し不得手だったけども、テレビ番組なんかのトークもそう。相手の間合いを計って、自分の好きなタイミングと調子を合わせ、心地よいリズムを作る。
 世の中は、自分だけでは上手く回らないから。踊れないから。世界のメトロノームに合わせてステップを踏む。
 けれど、今の私は、未来に怯えることしかできない私は、自分自身のテンポがわからなくなってしまった。私はいったい、何処にいるんだろう。
 かん高い子供の泣き声が聞こえた。私の集中力はそこでとぎれてしまい、顔をあげる。彼は窓の下をのぞき込んでいた。
「あぁあぁ、また派手に転んだなぁ」
 下に降りた方が良いのかとも思ったけど、すぐには身体が動かない。今の私には、テンポがわからないから。
 大丈夫ですよ、と彼も動こうとはしない。
「もう誰か大人がやってきました」
 そうですか、と私は答えるが、やはり腰を上げようともしない。代わりに、座ったまま空を見上げる。悔しいくらいに透き通る秋晴れだ。
「俺らが行かなくても、誰か他の人が行ってくれるんですよ。しかも俺らよりずっと適任者が。そういうもんです」
 そうか。私ではなくてもいいのか。ステップを踏もうにも踊る相手がいないのか。
 私にはいるはずだと、昔は思っていたのだ。私を必要として、私のためだけに一緒に踊ってくれる人が。私が踊り疲れても、メトロノームの音を絶やさないようにステップを踏んでくれる人が。
「どうして私がアイドルになったのか、知っていますか?」
 真っ青な空を見つめたまま、彼に問いかけ、そして返事を待たずに言葉を続ける。
「私ね、運命の人を探していたんです」
 私にはいるはずだと、そう思っていたんだ。
「笑いますか?」
「あなたらしいです」
「馬鹿にしてますか?」
「まさか」
「実際、馬鹿なんですよ」
 信じていたんだ。
 優しい未来が、私の運命だと。絵本の中だけにあるような、砂糖菓子のような、子供に接する大人のような、優しい形だと。
 ――たぶん、今でも。
 そしてまた私は、幾度となく呟いたこの台詞を投げてしまうのだ。
「プロデューサさんは、運命って信じますか?」
「そんなの、わかりませんよ」
 そして彼は、また同じ返事を返す。私はため息を秋空へはきかける。彼のため息をつく癖が、私にまで移ってしまったようだ。
「あなたは私より年上なのに、頼りになりませんね」
「あなたの方が先輩なんだから、仕方ないですよ」
 彼は肩を竦めて外を見、私は本を開いて再び読み進める。もちろんまた一頁戻して。
 泣き声はいつの間にか収まり、また笑い声が響き始めた。相手のテンポなんかお構いなしの自分勝手のリズムだ。しかしなぜか、それが上手いこと合わさって重奏となり、この5階にまで響いてくる。
 私はそれを意識しないように、自分のテンポで本を読み進める。
 自分のテンポを少しずつ思い出すように。自分のテンポを身体に刻み込むように。私と一緒に踊ってくれるその相手が見つかったときに、また上手に踊れるように。


 ―― ○ ―― ○ ―― ○ ――


「ほらはやくはやくー!」
「……ガキは本当に切り替えが早いというか、何も考えてないというか」
 涙を流していたことなんか忘れたかのように、私たちを先導して走っていく男の子に、彼は大きなため息をついた。私は思わずくすくすと笑ってしまう。
「元気な事は良いことですよ。それに、子供だって色々考えているんですから」
 そんなもんですかねぇ、と彼は頭を掻いた。
「まぁ、とりあえずは管理事務所ですかね。迷子のアナウンスくらいならやってくれると思いますよ。確か、展望台の下にあったはずです」
「もうちょっと周りを探さなくて良かったんでしょうか?」
「あれだけ大声で泣いてたのに気づかなかったんだから、よっぽど遠い所にいたんでしょう。……あの子曰く、迷子のお父さんお母さんは」
 プロデューサさんと手を繋ぎ、公園の奥にある管理事務所を目指す。男の子は私たちのゆっくりとした歩みがじれったいようでくるくると走り回る。霜柱を踏みつぶす足音がいろいろな方向から聞こえてきてとても楽しい。
「ねぇ、なんでそんなゆっくり歩いてるの?」
 私のすぐ左手に来て、男の子が後ろ向きに歩く。
「私ね、目が見えないの」
「え? どういうこと?」
 男の子は理解できないようで問い返す。
「そんな大きなメガネつけてるのに?」
「ええ、何にも見えないの。真っ暗」
 実際は、強い光の方向くらいは感じることが出来る。だから厳密には真っ暗ではないのだけど、健常者に比べれば真っ暗といっても差し支えないだろう。この子の不思議そうにしてるであろう顔さえ見ることが出来ないのだから。
「なんで?」
 そんな純粋な子供らしい問いに私は思わず吹き出してしまった。
「そうね、なんでだろうね。私もよくわからないの」
 医者からは神経系の病気だと言われた。仕事が忙しかった所為だろうか、と聞いたら、結果的にはそういう事も関係したのかもね、と曖昧な返事をされた。アイドルをしていなくてもこうなってしまった可能性はあるわけだ。元々の生活習慣、遺伝、食生活、住居環境、そして仕事。いろいろな要因が最悪な方向へ噛み合った結果、だ。何が悪かったのか、なんて答えは薄まってしまって消失してしまった。
 こういう原因がはっきりとせず、結果だけが人生の前後に楔を打っていくという事をなんといっただろうか。
 ――運命、と呼ばれるのではなかっただろうか?
「ふぅん、へんなの」
 そう男の子が言ったとき、彼が私の右手を強く握った。私はそれを大丈夫だよ、優しく握り返す。
 子供は本当に、純粋で残酷だ。見たままの現実を、そのまま口にするから。
「じゃあボクも」
 左手に小さくて、弱々しくて、でもとても暖かい感触。
「ボクも、道を教えてあげる」
 私の少し前を、こちらに歩調を合わせて男の子が歩く。そんな泥だらけであずささんの手を、と彼が呆れたようにぼやいた。私は、胸の奥からふれてきたような笑みを隠さずに、ありがとう、と言葉にした。

 ― ―

 3人で手をつないだまま、男の子の子供らしい小さな身の回りの自慢話聞きながら道を進む。大きなトンボを捕まえることがそんなにステータスなのか、本当に楽しそうで話が止まらない。
 結構歩いたと思うのだけど、まだ目的地には着かない。この公園は想像していたよりも広いらしい。本来なら車で移動する距離ですよ、と彼がまたぼやいた。
「ねぇねぇおねーさん」
「はーい、お姉さんですよー」
 あぁ、この子はなんていい子なんでしょう。プロデューサさんも少しは見習った方が良いと思う。変に遠回りするよりも、真っ直ぐ心がこもった言葉の方が女性は、いや、女の子はぐっと来るのだから。
「おじさんさ」
「………………誰のことだ?」
「だからおじさん」
「てめぇ……」
 まぁまぁプロデューサさん、と彼をなだめる。
「子供は純粋で正直ですから。いつだって真実しか口にしません」
「さっきこいつ迷子になんかなってないとか言ってませんでしたっけ」
「誰にだって間違いくらいありますよ。ねー?」
「うん! おねーさん!」
「……さっきから随分と楽しそうであずささんは」
「あら、嫉妬ですか?」
 もういいです、と大きなため息をついた。男の子がぶんぶんと手を振り回す。
「いいからボクのきいてよー」
「うふふ、ごめんね。なぁに?」
 あのさ、と少し前に出て手を握ったまま半回転、こちらを向いて後ろ向きに歩く。
「おねーさんとおじさんって、ふーふ?」
「んがっ」 
 隣でプロデューサさんが愕然として足を止めた。それに連動して私と男の子もその場で立ち止まる。私は、あらまぁ、と頬に手を当て――ようとしたのだけど、あいにく両手がふさがっていた。
「ちがうの?」
「違うも何も……」
 なにやら動揺している彼の手を離し、私は腰を屈めて男の子と目を合わせた。まぁ目は見えないのだけど。それでも、話すときは相手と【視線】を合わせるのが、なにより大切なことだ。相手の質問には、誠意を持って答えなければ。
「そうよー。夫婦なのよー」
「っちょあずささんっ!?」
 誠意、誠意。
 彼が私の後ろで口を金魚みたいにぱくぱくさせているのが容易に想像できる。彼が慌てたり焦ったり心配していたりすると、なんで私はこんなに嬉しくなってしまうのだろう。私の事を少しでも考えてくれる人がこの世にいるんだと、確認できるからかもしれない。単に、私にそっちのケがあるだけなのかもしれない。もしかしたら、もっと単純に――そういうことなのかもしれない。
 つまりは、彼がそれだけ動揺するとき、私も同じくらい感情が動いてしまうと、そういう事なのだ。
「ふぅん。そっか。かぞくなんだ」
 男の子は、なにやら唸っている彼とは正反対に、興味なさげに鼻を鳴らすと、私の手を離して先に歩いていってしまった。
「……あら?」
「あずささんがテキトーなこと言うから。ほら、行きますよ」
 私を立たせるために、彼がそっと手を差し出してくれた。
 男の子の少し後ろを追って歩く。しかし、さっきまであれだけお喋りしていたのに、じっと黙ってしまった。興味を引きそうな話題をふってみるけど、うんともすんとも返してくれない。
「ねぇ。どうしたの?」
「うん、その」
「何か私、あなたが嫌だなと思うことを言っちゃったかしら……?」
「ううん、そんなことないよ! そうじゃなくて」
 泣いていたと思えばはしゃいだり、笑っていたと思ったら急に黙り込んだり。表情が見えない私には、もうついて行くのに精一杯だ。
 男のが脚を止める。私たちもそれに合わせて立ち止まる。その、ね、と小さく小さく呟く。
「かぞくが、できるんだって」
 家族?
「こんど、いもうとがうまれるんだ。ぼくの」
 あらあら、と私は頬に手を当てる。それはそれは。
「よかったじゃない。おめでとう、お兄ちゃん」
 おにいちゃんおにいちゃんと男の子は何度か呟くと、力なく呻いた。
「ぼく、よくわからない」
「なんでだよ、いいことじゃないか」
 プロデューサさんががりがりと頭を掻いた。
「うん。みんなそういうんだけど」
「いやなの?」
「いやじゃない、とおもう。それもわかんない」
 わかんない、か。わからない、わからない。なんにもわからなくて、どうしようもなくて逃げ出して、挙げ句の果てに迷子になって。そんな人を、私はよく知っている気がした。
「いままで、ぼくのかぞくはお母さんとお父さんだけだったのに。なのに、きゅうにいもうとができるって」
「まぁたぶん急っていうわけでも――あいてっ!」
 よからぬ事を口に出しそうなプロデューサさんの脹ら脛をけりつける。
「そっか。それでお父さんもお母さんもあんまり構ってくれなくなっちゃって、寂しいんだ?」
「さ、さびしくなんかない! ないけど……」
 家族という枠組みはとても強固なものだ。こんな小さな子でさえ無意識に保守的な意識を芽生えさせてしまうほどに。特に人員の増減にはとても敏感になってしまう。増える時は恐ろしいほどに慎重になるし、減れば胸が張り裂けそうになるほど悲嘆に暮れる。それは何処の国でも、人種でも、時代でも変わらない。もしかしたら、人間以外でも。
 見えてしまうのだ。家族とそれ以外の人間(もしくは人間以外の何か)で。目に見えないラインが。その目に見えないラインが、迷子になっても他人に頼らないようにし、心配事を口に出すのを尻込みさせ、新しく家族になる妹を拒絶する。
「わからない。どうしていいのか、わからない」
 それが揺らいでしまったら、枠が自分ごと不安定になってしまうから。
「あらまぁ」
 ――だけど。
「そんなの簡単よ」
 私は身をかがめ、男の子の右手があるであろう付近に左手を伸ばし、小さいそれを優しく握る。
「こうやって手を繋いであげればいいの。ボクはここにいるよって。きみのお兄ちゃんだよって」
 目が見えない私には、目に見えないラインなんて見えない。感じられるのは、この一本の手だけ。
 男の子はそれでもぷるぷると音をたてて首を振る。
「できない。できるかわかんないよ。……わかんない」
「そんなことない。あなたはできるわ。だって」
 もう一回、左手に、そして右手に力を込める。
「だって、さっきは私の手をとってくれたじゃない」
 隣でプロデューサさんがふふっと笑った。私も、あわせて笑った。
 男の子はしばらくじっと考えてから、うん、と一言頷いてから、また私の手を引いて歩きだした。
 肌寒い木漏れ日の下を3人で歩く。右へ左へ前へ後ろへせわしなくビートを刻む足音。ゆっくりと気ままに拍子を叩く足音。大きな歩幅で窮屈そうにこちらにテンポを合わせる足音。3人の足音が心地よいリズムとなって私の耳を、肌を刺激する。
 何も難しいことはない。感じるままに。前へ、前へと足を進めるために。
「ねぇ。歌を歌いましょうか」
「うた?」
「えぇ、私ね、お歌がとっても好きなの」
「あ、あずささん?」
「じゃぁ……。夕焼けの歌!」
「おいおいまだ昼過ぎだぞ……」
 素敵。私もとっても好きな歌の1つだ。
「いきますよー」
「はーい」
「……はぁ」
 せーのっ。



 ―― ● ――  ――  ――


 もの悲しい歌声が聞こえてきた。きっと、日が暮れてきたことを知らせるチャイムの代わりに自治体が区域内へ流しているんだろう。そうか、もう夕方か。もし目が見えなくなっても、この時間帯だけはわかるな、とあまりにどうでもいい発見をした。
 それにしても、と辺りを見回す。右手には目線より下に静かな住宅街。大通りから一本はずれた側道の路面は、あまり舗装がしっかりしていなくて、所々陥没している。左手には粛然と流れる大きな川。対岸で学生達がいくつかの固まりになって下校しているのがなんとなく見える。
「ここはいったい何処なんでしょう……?」
 思わず独り言を呟いてしまうほどに、私はつまり、迷子だった。
 確か、お仕事の帰りだったはずだ。そう、雑誌のお仕事だ。仕事なんてもう1つだってしたくはなかったのだけど。けれど、今回はプライベートでの友人から頼まれた仕事だったので断るに断り切れなかったし、さぼるわけにもいかなかった。
 あるお寺にそれは立派な紅葉の並木があって、その下を著名な知識人の方と歩きながら語り合う、というものだった気がする。なのだけど、どんな事を話したかはあまり覚えていない。その方は女性だったのだけど、とてもはきはきと持論を展開する方だったので、なんだか気後れしてしまった。あまりに真っ直ぐな物言いは、今の私には辛いのだ。おかげで綺麗な紅葉の色合いはまったく頭に残っていない。
 そうだ。だから私はお仕事が終わった後、プロデューサさんに聞いたのだ。

『彼女、なんの話をしていたんですか?』
『なんであなたが覚えていないんですか……』
『だって……』
『急に仕事を減らしたのは改めて自分と向かい合うため。自分が本当に輝ける場所を新たに発見、確立するためですか? とか、そんな話です。正直、横文字ばっかり使ってて俺にはよくわかりませんでした。とかく、コアコンピタンシィという言葉がお気に入りだったみたいですよ』
『ふぅん。難しそうな話。私はなんて返していました?』
『この四年間、私としては出来ることを出来るだけの力でやってきたつもりなのだけど、周りからみたら心配になるほどオーバーワークだったらしい。確かに振り返ってみると、その代わりに犠牲――といったら言い方は悪いですが――になったものも多かった。このままでは私の中は空っぽになってしまって、近い将来ぽっきりと折れてしまうかもしれない。そうなる前に、少しだけ充電期間をおこうと、自分の中にものを詰める時間をおこうかなと思いまして。そしてまた、一回りも二回りも大きく、深くなった自分を皆さんにお見せすることが出来たらな、と』
『よくそんなすらすら出てきますね』
『仕事ですからね』
『あなたの事じゃありません。私のことですよ。そんな思ってもないことをすらすらと』
『だから、仕事だからじゃないですか?』
『あらまぁ』
『そんな訳で、俺は少しだけあちらと打ち合わせがあるので、ここで待っててもらえますか? すぐに終わりますから』
『珍しく真面目ですね』
『ドタキャンしてもいいんですか?』
『できれば、今回だけは私の顔を立ててくれると助かります』
『じゃ、大人しく待ってて下さい』
『もう。子供じゃないんですから、そんな念を押さなくても大丈夫ですってば』

 大丈夫じゃなかった。
 綺麗な紅葉が見られそうな方へほんの少しだけ移動しただけなのだ。そうしたら喉が渇いてきたのでちょっとだけ自動販売機を探して歩いただけなのだ。そして、あぁそういえば財布を持っていなかったなと思い出して、荷物がある場所へ戻ろうとしただけなのだ。それだけなんだ。だというのに、気がついたら全く見覚えのない川の土手に立っていた。
 私は昔からどうにも道に迷いやすいタイプだった。小さなものを数えればきりがない。大きなもので言えば幼稚園の遠足に始まり、小学校の林間学校、中学校の修学旅行、極めつけは高校時代の体育祭だ。校内のイベントでどうやったら市外の水族館まで迷い込むことが出来るのかと周りに呆れられたものだ。
 大きくなれば治るだろうと周りも私自身も楽観視していたのだけど、それがいけなかったのか、果たしてこの年になっても方向音痴は直らなかった。もちろんアイドルの仕事中もそんな調子なものだから、今までのプロデューサは決して私から目を離そうとはしなかった。そんな周囲の涙ぐましい努力によって、ここ最近は迷子になることなんてもうほとんどなかったのだ。だったはずなのだ。だったというのに。
 もう自分自身が信じられない。本当にもう。
「けれど、まぁたまにはいいわよね」
 また独り言を呟いて、秋空を見上げる。
 今も昔もあまりに周囲が私に気を遣うものだから、申し訳ないのだけど、どこか息苦しさを感じる所があったのも事実だ。こうやって自由を謳歌しようじゃないか。
 手を後ろで組み、土手を歩く。夕日の方向へと足を進める。熱くも冷たくもなく湿度も丁度良い――悪く言えば中途半端な――風が頬を撫でる。私の後方に住宅街が集まっているのか、道行く仕事帰りのサラリーマンや買い物を終えた主婦、勉強から解放された学生達などが、私とは逆方向へ流れていく。疲れた顔であったり、携帯をのぞき込んでいたり、友人達と泥だらけになったりはしているが、一様に前へ前へと進んでいる。私はそれに逆らい、自由を感じようとしながら歩みを進める。
 紅葉と夕日が水面を紅に染める。対岸に目をやると、数人の子供が川に入り、紅葉を捕まえようとして遊んでいる。干潮であまりに穏やかな水面は夕日の照り返しも相まって、どちらへ流れているのかさえ判別がつかない。流れるだけの紅葉は、果たして自分が流されている方向を理解しているのだろうか。
 夕日を見上げる。いや、もう見上げると言うほどの高さはなく、刻一刻とその身を隠そうと沈んでいく。
 沈まないで、と反射的に口から呟きが漏れる。
 沈まないで。もう少しだけでいいから光を下さい。光がなくなってしまったら、ただでさえ迷子の私はもうどうすればいいのかわからなくなってしまう。夜が怖い。暗闇が怖い。静寂が怖い。
 最後の輝きをとその身を震わせる夕日を、目を細めて見つめる。
 あと少し、ほんの少しで良いのだ。
 少し、少し、また少し。
 けれど、こんなにもエゴイスティックで浅ましい私は、少しを知ってしまうと、その先のもう少しを望んでしまう。少し、少し、また少し。その少しが積み重なった永遠が、欲しい。私にはあるはずだと信じ切っていた、永遠が。
 それをくれないならば、私はもう、沈む夕日のように消えてしまいたい。

 ――もちろん、私の思いとは何も関係なく太陽は沈み、夜がやってくる。

 川縁に膝を抱えてうずくまる。
 闇が降りた水際にはもう人の気配はない。さっきまで私とは逆方向に流れていた人の流れはすっかり途絶えてしまっている。
 自由なんてない。開放感を得れば得るほどに、いっそう孤独が身にしみるだけ。
 手を差し出して川の水に触れる。身を刺すような冷たさが、冬の到来を告げているようだった。そのままかき回すように手を遊ばせる。暗闇で濁った水はとても恐ろしいもののように見えたけど、どこか悪魔的な魅力も備えているように思えた。
 感覚のなくなりかけていた指先に何か薄いものが張り付く。ゴミかと思ってそれをはがして空の月に透かす。紅葉の葉だった。水でふやけ、色はあせ、形も原形をとどめていない。が、しかし、それでも自分は紅葉の葉だとそれ自ら示していた。
 こんなに汚れてボロボロになっても、紅葉は紅葉なのだとわかる。なぜなのだろう。

「あずささんっ!」

 川と紅葉と私だけの静寂を破る一声。
 後ろをゆっくりと振り返ると、息を切らせて膝に手を置いたプロデューサさんが、そこにいた。スーツを小脇に抱え、Yシャツの袖をまくり、こんな肌寒いのに汗を滴らせて彼が立ってい姿が、ぼんやりとだけど見えた。
「あ……」
 私は声が詰まってしまった。彼があまりにも必死な様子だったので、何から口に出せばいいのかわからなくなった。けれど、そんな私にはお構いなく、彼は息も絶え絶えに捲し立てた。
「よかっ、よかった、です。もう、本当にあずささん、よかった。疲れた。マジで、本当にもうあずささん。心配、した、んですから」
 私は思わず首を傾げて問い返してしまった。
「心配したんですか?」
「当たり前じゃないですかっ!」
 彼の突然の大声が静かな川辺に響く。私は思わずびくりと身を震わせた。叫んだ当の本人も、思わず飛び出た声量にバツが悪くなったのか、手を頭に乗せてそっぽを向く。
「……当たり前じゃないですか。いくら探してもあなたが見つからなくて。ただでさえいつもあなたは何処かへふっと消えてしまいそうな佇まいなのに」
「そう、ですか」
 持っていた紅葉の葉を、再び川の水へとくぐらせた。ゆらゆらと揺れて蜃気楼のように不確かな像が見えた。
「あなたは、私のことなんか興味がないと思っていました」
「俺は、あなたのプロデューサです」
「プロデュースなんかほとんどしてない癖に」
「それでも、俺はあなたのプロデューサです」
「なにもしなくていい、って言ったじゃないですか。一番最初に」
 私に優しい無関心をくれれば、それで十分だ。それ以上は今の私には重たすぎて、歩くどころか立ち上がることさえ出来ないから。
 ねぇ、と問いかける。
「私の顔、見えますか?」
 もちろん、と彼は頷いた、ように見えた。
「そうですか。私はね、あなたの顔がはっきりとは見えないんです。もうこれくらいの夜の明るさでは光を捕まえられないんです」
 少し乗り出せば触れられそうなモノの形が、私にはわからないのだ。ついさっきまで、見えていたモノが。
「私の見られる世界と時間がどんどん狭くなっているんです。ついこの間まで、無限に広がっていたはずの世界が、時間が、自由が、少しずつ少しずつ削られていくんです」
 朝起きて鏡を見るときに、本と顔の距離に違和感を感じたときに、対談している相手の口元が見えずに上手に会話が出来なかったときに、気づいてしまう。真綿で首を絞めるようにゆっくりと絞られていく私の世界に。
「怖い」
 膝を強く抱えて顔を埋める。
「怖いなぁ。すごく怖い」
 私の声は、笑ってしまうくらいに震えていた。彼が、苦しげに声を絞り出す。
「正直なことを言えば、俺にはその気持ちはわかりません。けれど、それでも、絶望はしないで欲しい。死ぬ訳じゃないんだから、というのは酷でしょうか?」
「それだけじゃないんです」
 首を振って言葉を遮る。確かに目が見えなくなることはとてもとても怖い。けれど、本当に恐ろしいのは、目が見えなくなることそのものではない。
「怖いのは、自分自身です」
 この季節は日が落ちるととても寒くて、声が、身体が、気持ちが、がくがくと震える。
「私、どんどん嫌な人間になってる。自分のことばっかり考えてて、あれだけ一所懸命だった仕事を平然とさぼってる。子供が泣いてても身体を動かそうともしない。すごく、傲慢な人間です」
「それは、仕方ないですよ。こんな事になってしまったら」
「仕方ない、とかそういう話ではないんです。だって私は、傲慢な人間に‘なった’わけではありません。傲慢な人間だったんです、元々。その化けの皮がはがれているんです」
 きっとそうだ。元々私はそういう人間だったんだ。自分のことしか考えられないすごく自己中心的な人間で、それを隠すように人に優しいふりをしていただけなんだ。世界のメトロノームが聞こえなくなってしまったわけではない。元々聞こえなかった癖に、聞こえているふりをしていただけなんだ。
『誰にでも優しいアイドル三浦あずさ』
 そんなもの、虚像だ。そんな人間、何処にもいない。本当の私はこんなにも醜くい。
「まわりに迷惑ばっかりかけて、それでもみんな私に親切にしてくれるのに、それを重いだけだなんて考えてしまってる」
「みんな迷惑だなんて思ってませんよ」
「そういう気持ちが重いから止めて欲しいって言ってるんです」
 ――ほら、悪態がまたひとつ。
「家族や友人達と一緒にいるのが怖い。こんな私をみんなに見て欲しくない。こんな私を知って欲しくない」
 だから逃げ出して、旧社屋に逃げ込んだ。
「今でさえこんな感じならば、完全に目が見えなくなってしまったとき、そのとききっと私は――」
 世界で一番、最低な人間になってしまう。
「そんな私、私は見たくない」
 そんな私を知ってしまったら、私はもうきっと立ち直れない。
 知りたくなかった。私は三浦あずさでありたかった。運命に恋いこがれる三浦あずさでありたかった。見えないモノは、見えないままでありたかった。
「精一杯三浦あずさを取り戻そうとしました。優しい三浦あずさを。だけど、だけどだめなんです」
 私は私のテンポがわからない。自分が踊りやすかったはずのステップが思い出せない。
 そもそも、そんなものはなかったのかもしれない。
「私は、優しくなんかない」
 運命なんて何処にもない。
 あるのは、ありふれた現実と、ありふた結末。そして、未来が怖くて逃げている私。
 空一杯のロマンチックは、ひとかけらのリアリズムでひび割れる。
 川に差し込んだ指先の感覚は、もうなくなってしまった。

「――けれど、それでも」



 ―― ○ ―― ○ ―― ○ ――


「ごめんくださーい」
 受付のガラス越しに管理室の中へ呼びかけるが、まるで人の気配がない。こんこんと手で軽くノックしてみるが、やはり返事はない。マンションのロビーみたいな空間に、私の声だけが寂しく響く。管理人だけでなく、どうやら他のお客さんも丁度いないらしい。
「裏に回ってみましたけど、やっぱり誰もいませんね」
「ませんねー!」
 私と一端別れて、周りを探していたプロデューサさんと男の子が戻ってきた。
「ちょっと不用心すぎますね。こんな大きな公園でスタッフがいない方がおかしいんですけど」
「ですけどー!」
「そうですねぇ。ちょっとタイミングが悪かったみたいですね」
「日頃の行いが悪かったのかな」
「わるいわるい!」
「うふふ。きっとプロデューサさんが歌わなかった所為ですね」
「そーだそーだ!」
「……てめぇさっきからうるせぇなこんにゃろう!」
「いたたたた! やめ、やーめろー!」
「あらまぁ」
 兄弟みたいにじゃれ合う二人がおかしい、というか可愛い。いつの間にこんなに仲良くなったのか。ちょっとだけ嫉妬のような気持ちが沸いて出てしまう。
「それで、どうしましょうかね、こいつをここに放っておくのもアレですし」
 プロデューサさんが息を切らしながら暴れる男の子を押さえつける。
「そうですね。ご両親達もまずここにいらっしゃるでしょうし。探しに出て入れ違いになってしまっても困りますよね」
「受付にかかっている札も、【在室】のままになってますし、ここのスタッフもすぐに戻ってくるんじゃないかとは思いますけど」
「じゃあここで一緒に待っている事にしましょうか」
「そうですね――っとおわっと」
 ばたばたと男の子がプロデューサさんから離れ、私の腰にしがみついてくる。まぁ可愛そうに、とふわふわした髪の毛を撫でてあげる。
「てめぇ……あずささんに抱きつくとはイイ度胸じゃないか」
「うるさい! いたいだろ! バカ!」
 ねぇねぇ、と男の子が私の袖を引っ張る。
「なぁに?」
「ここにいるの?」
「そうね。すぐにお母さんとお父さんが来ると思うわ」
 ふぅん。と興味なさげな様子の男の子。あんな泣くほどに寂しがっていた癖に、本当に切り替えの早い子だ。羨ましいくらいに。
「じゃあさじゃあさ、上にいこうよ!」
「うえ?」
 私は首を傾げる。
「ここのテンボウダイの上だよ! すっごいたかいんだから!」
「展望台? ここは展望台になってるの?」
「そうだよ、すっごく高くて、大きくて、どこまでもとおくまで見れるんだ。ボクのおきにいり。すっごくきれいなけしきだよ!」
 あぁなるほど、だからここに入ったときに何か違和感を感じたんだ。ただの公園の管理事務所にしてはやけに空気の圧迫感みたいなものを受けた。確かに、そういえば彼がさっき『展望台』と口にしていた。
「ね、いこうよ! ほんとにきれいなんだから!」
「そうねぇ」
「――いかない」
 とても楽しそうにはしゃぐ男の子を、彼の冷たい一声が制する。ばっと男の子が彼の方向へ振り向く。
「えーなんでだよー」
「お前のご両親を待っているんだ。ここにいなきゃ困るだろう。ただでさえ心配しているだろうに、まだ迷惑をかけるのか」
「そうだけど、でもー」
「でもじゃない。我が儘をいうな」
「でもいーきーたーい! いくー!」
 足を踏みならして駄々をこねる男の子に、しびれを切らしたようにプロデューサさんが声を荒げた。
「お前――!」
「いいわ、いきましょう」
 私は腰を下ろし、男の子と視線を合わせ、にこりと微笑む。
「大丈夫、少しくらい席を外しても。ここに書き置きを残していくから。もしかしたらご両親達も上を探しているのかもしれないし」
 それに、と男の子の頭に手を乗せる。
「あなたのお気に入りなんでしょう。私も行ってみたい」
 数拍遅れて、頭に乗せた手が落ちてしまうくらいに、男の子の頭が上下した。
「うん!」

 プロデューサさんに書き置きをしてもらい、屋上へと繋がるエレベータへ向かう。男の子はずっと私の手を握っていたのだけど、途中からテンションが上がりすぎたのか、一人で走り去ってしまった。代わりにプロデューサさんが私の右手を取る。
「……あずささん、俺は」
「いいんですよ」
「でも、その」
「私が良いって言ったら良いじゃないですか」
 彼は手を握ることで返事をした。
 前方からはやくはやくー、と男の子の声が聞こえる。ちょっとだけ早足になった。
「足下、気をつけて下さい」
 彼のエスコートで、エレベータに足を踏み入れる。狭い箱状の空間が、目の見えない今では少し安心する。
「うえにまいりまーす」
 男の声と同時に、自分の立っている場所がひと震えする。そして、重力が強くなったかのような上昇感。わーはやいはやい、と飛び跳ねる男の子に、プロデューサさんがため息をついた。
「ねぇ、ちょっとこっち向いて」
 中腰になって。男の子を呼ぶ。なぁに、と近づいてきた男の子の頭をなで、その位置を把握する。そして自分の首からダークブラウンのマフラーをとって、ふわりと男の子の首に巻いてあげる。
「高いところは寒いから、ね?」
「チクチクする……」
「手編みだからね、ごめんなさい」
「ううん。あったかい。ありがと!」
 がくんと箱が揺れて、電子音がなる。ついで、女性の声で「最上階、空中公園です」とアナウンスが流れる。
 エレベーターのドアが二枚、開く音が聞こえた。
 そして、眩い光が、差し込む。



 ――  ――  ――  ――


「けれどそれでも、あなたは優しい人です」
 プロデューサさんの力を込めた一言が、静かな水面に響く。
「俺はひどく自分勝手な男です。半年ほど前、個人的に辛いことがありました。俺の本当にくだらないエゴイズムで起きた事で、俺はそれをずっと引きずっていました。あなたのプロデュースなんか、まったく関心を持てないくらいに」
 そう。それが私にとってすごく助かったのだ。無関心が嬉しかった。
「けれど、馬鹿な俺は最近になってようやく気づきました。あなたの今の苦難に比べたら全然ちっぱけな事だって」
「辛いと思うことに大小なんかありませんよ」
「いえ、あります」
 今日の彼は、珍しくはっきりと断言する。そんな彼を見るのは初めてな気がした。
「仕事もせずに、あなたのことも見ずに、ただただ漫然と毎日を過ごしていました。どうしようもない人間です、俺は。だけど、あなたはそれでも俺の事をプロデューサと呼んでくれました」
「当たり前じゃないですか。そういう関係ですから、そう呼ばずになんて呼べばいいんですか?」
「そうだとしても、あなたは俺のことをプロデューサと呼んでくれました。今はそれだけなんです。それしかないんです。だから、お願いだからいなくならないで下さい。
 ――俺を、見捨てないで下さい」
 子供の駄々みたいなことを言う彼に、私は驚く。こんなに感情を全面に出すような人だったろうか、彼は。確か私たちは、互いを必要としないからこそ一緒にいたはずだ。それが、ルールだったはずだ。
「私が、必要なんですか?」
 もしかして、私は必要とされているのだろうか。目が見えなくて、どうしようもなく弱くて、こんなに傲慢な私を必要としてくれる人がいるんだろうか。
「私、すごく自分勝手な人間ですよ」
 じゃりっと一歩、彼がこちらに歩み寄った。
「本当に自分勝手な人は、自分の目が見えなくなることより自分の傲慢さを気にするようには出来ていません。
 本当に自分勝手な人は、それすら気づけずにいられないくらい、傲慢なんです。俺みたいに」
「私の事なんかなんにも知らない癖に」
「じゃあ、これから教えて下さい。あなたの事を知りたいです。そして、俺も自分のことをあなたに知って欲しいんです」
 手に持ってた紅葉を、そっと川へ流した。煤けた赤色が真っ直ぐ川下の方へ流れていくのが少しだけ見えて、水面に映る月明かりの下へ消えた。
 なんだかなぁ。
 今彼に言われて気がついてしまった。そう。私も結局彼が必要なんだ。無関心が必要という事は、無関心という関心を持ってくれる人が、必要なんだ。一人では、無理なんだ。
 私たちは、一人でいたいと思っていた。だから彼と一緒にいたのに、結局私たちは互いが必要になってしまった。なんて馬鹿な話だろう。なんて滑稽なんだろう。
 でも結局そういうものなのかもしれない。人は一人では生きていけないから。他人という楔を人生の前後に打っていかなければならないから。
 自分のことで精一杯で、他人のことを考える余裕がないのならば、私たちはそうやって支え合おう。二人で二つの、別々の存在でお互いで立ち上がってみよう。
「プロデューサさん」
「はい」
「私は優しいので、あなたと一緒にいてあげましょう」
「……はい」
「だからその代わり、私と一緒にいて下さい」
 暗くて周りの景色は何も見えないのに、プロデューサさんが頷く姿だけは、はっきりと見えた気がした。

「クシュンッ!」

「ぷっ」
 私の間の抜けたくしゃみに、彼が思わず吹き出す。恥ずかしくて、でもそれを隠すように彼の方をじっとにらみつける。
 私の方に彼の左手が差し出される。私は少しだけ躊躇してから、右手でその手を取った。川の水で濡れ冷え切っていた手に彼は驚いた後、それを暖めるように強く握った。
 男の人らしいごつごつとした、力強くて、どこまでもいつまでも守ってくれそうな手だ。それは際限なく甘えてしまいそうな魅力を秘めていて、弱い私にはそれがとても嬉しかった。
 彼の手に引かれて土手の上まで上がる。私の目はこの暗さでは何も用をなしてくれなかったが、彼の手があったから私は何も心配するところはなかった。
 道に戻り顔を上げると、近くに街頭の青白い光が、遠くに橙色の街の灯りが見え、ようやく私の網膜を刺激した。その光はぽつぽつと少しずつ増えていっていく。遠くから、電車の音が聞こえた。
 帰路を歩く。川上に向かってなのか、川下なのかは私にはわからなかったが、確実に前へ前へと進んでいることだけはわかった。感じるままに、一歩ずつ。私より上背のある彼と私では歩幅が違うので、彼は窮屈そうにテンポをずらして私の歩みに合わせてくれる。私も迷惑はかけまいと足早になってみたり、歩幅を大きくしてみたり。そんな風に互いが互いに恐る恐る合わせてしまえば、合うモノも合う訳がなく、私たちの歩調はおかしなリズムになる。けれど、私はそのうまくいかないテンポがとても気に入ってしまった。
 私は、さっき流れていた夕焼けの歌を口ずさむ。もの悲しくて、でもどこか安心してしまう郷愁の歌だ。突然歌い出した私に、彼は少しだけ驚いたようだけど、けれど何も言わずに私の手を握りなおした。そういえば、彼の前で歌ったのはこれが初めてだ。私は歌には特に自信があったので、何かもったいないような気がする。
 事務所に帰ったら、あの応接室で温かいココアを飲みながら私の話を聞いて貰おう。たいした事ではない。どこにでもいる女がアイドルになって、それをやめるまでのお話だ。どこにでもありふれている、ただそれだけの話だ。
 次に彼の話を聞こう。きっと彼もたいした事はない話なんだろう。少なくとも、彼はきっとそういうだろう。
 そして二人の話が終わったら、いつか未来の話をしよう。今まで目をそらしてきた、未来の話を。
 中途半端な風と、人の灯り、右手のぬくもり。そして、小さく小さく歌う私の歌。
 私は確かにその時、運命がこんな形でも良いと思ったのだ。


 ―― ○ 



 ―― ○ ―― ○ ―― ○ ――


 エレベーターから降りると、二月とは思えないような強い日差しが私を刺した。太陽から地球までの距離に比べたら、ここと地上の距離なんて誤差でしかないというのに、これほどにも光を近くに感じるとは思わなかった。
「わかるんですか?」
「ええ。ほんの少しだけですけど、まだ強い光なら感じることが出来るんです」
 あまり見てはいけない、と言われてるんですけどね、と外していたサングラスをかけ直した。
「それに、お日様は目だけで感じるものではありませんよ。ほら、両手を広げてみてください」
 手をつないだまま、私は両手を広げ、胸を張って空を見上げる。肌が光となって、熱となって、私の肌を刺激する。それが【光】ではなく、【この国の二月中旬の日差し】という的確な情報を私の脳へと送ってくれる。ね、と彼に同意を求めると、そうですねぇ、と彼は中途半端な返事をした。
「なんですかそのやる気のない返事」
「いくら日が出てると言っても、ちょっと寒いですよ、流石に」
「暖かいですよ」
「……何言ってるんですかあずささん?」
「あっちではね、この季節って本当に寒いの。もう信じられないくらいに」
「それはそっちと比べればそうでしょうけど」
 ねぇ? ともう一人の連れに同意を求めるが、返事がない。
「あれ、あの子は?」
「ドアが開いた途端につむじ風みたいに飛び出して行きましたよ」
「あらまぁ。よっぽど好きなんでしょうね」
「なんとかとなんとかはなんとやら、って奴ですね」
 二人で手を繋いで、公園内を散策する。てっきりコンクリートで固められた無機質な展望台なのかと思っていたのだけど、草木の臭いは香るし、葉のざわめきや小鳥のさえずりも聞こえる。かなり緑が多いつくりになっているようだ。
「空気が気持ちいい。下から離れているからでしょうか」
「楽しいですか?」
「ええ、とっても」
 そうですか、と彼は諦めたような言い方をした。
「本当はですね、あなたをここに案内するつもりはなかったんですよ」
「へぇ」
「俺には、目が見えないあなたの気持ちがわからないから。だから景色を楽しむための娯楽だなんて、とても辛い事だと思ったから」
「そうですね、確かに辛いかもしれません」
 周りが平等に不幸であれば、それは不幸でなく日常だ。だけど、周りが幸福で私だけが日常であれば、それは不幸だ。偏差値の上下で私たちの幸不幸は変わる。すごく身も蓋もない言い方をしてしまえば、この空中公園は私にとっての地獄なのかもしれない。
「でもね、どこであっても、どんな状況でも、一欠片の楽しみはあるものですよ」
 完全な不幸も、完全な幸福もこの世の何処にもない。何かしら楽しいことがあって、何かしら辛いことがある。そこが地獄であろうと、天国であろうと。なぜなら、私たちの幸不幸は偏差値の上下で変わるから。そのラインは、私が決めて良いから。
「教えてくれたのは、あなたですよ」
「……どういう事ですか?」
「自分で考えて下さい。だからこそ、価値があるんです。何事も」
 彼はしばらく思案してから、大きなため息をついた。
「俺はあなたの考えを察することができません。今も昔も」
「そんなあなただからこそ、私はこうやってあなたと一緒にいるんです。今も昔も」
「煙に巻きますね」
 うふふ、と笑って彼の方に体当たりをする。彼は軽くあしらって私の前を歩いた。季節外れのトンボの羽音が聞こえた気がした。空耳に違いないのだけど、それでも私はなんだか嬉しかった。
「あぁそれと、さっきの冗談」
「冗談?」
「ほら、あれです。俺らが夫婦だとかなんとかって言ったやつ」
「あぁ、ありましたね。嫌でしたか?」
 彼はご飯を前におあずけをされてる犬みたいなうなり声を上げた。
「……あなたにはわからないでしょうね。子供相手の冗談だとしても、美しい女性と夫婦の仲だと紹介されたときに男がどれだけテンパってしまうかなんて」
「あなたにはわからないでしょうね。子供相手の冗談だとしても、魅力的な男性と夫婦の仲だと紹介されたときに女がどれだけ表面上は取り繕ってはいても慌ててしまっているかなんて」
「もしかしてからかってますか?」
 そんなことはわかっていてやっているのだ。彼にとっては私がそんな純真な女に見えているのだろうか。私の本性は、こんなにも汚い人間だというのに。そういう意識は今も5年前も変わってはいない。ただ、自分のラインが変わって肯定的に見られるか否定的なのか、その違いだけだ。
「本気ですよ?」
「はぁ、もういいですよ。階段があるので気をつけて下さい」
 十数段の階段を、彼の手に引かれながら上る。一番上につくと、強い風が髪をはためかせた。私の周り360度と頭の上が大きく開かれたのがわかる。何処までも何処までも広く続く世界が感じられる。ここはきっと世界の天辺だ。
「――気持ちいい」
「ここはこの塔の一番上の展望台です。うぅ寒っ」
「素敵」
「そうですね――ってあのガキここにいたのか」
 ぱたぱたと子供が駆け寄ってくる足音。しかしその音は私のそばに来る前に途絶えてしまう。抱きつかれるかと思って身構えていた私は拍子抜けしてしまう。
「どうしたの?」
「その、えっと、あの、あの」
「うん」
「ごめんなさい!」
 音をたてて私にもわかるくらい男の子が勢いよく頭を下げる。
「ごめんなさい。おねえさんは目がみえないから、ここにきてもたのしくないんだね。ぼくのわがままで、かってしてごめんなさい」
 私はくすくすと笑ってしまう。
「いいのよ。目が見えなくてもね、すごく良いところだってわかるから」
「でも、ぼくおにいちゃんだから、あいてのきもちをかんがえなてあげきゃだって」
「そう、優しいのね」
 この子はきっと良い兄になるだろう。もし、妹が素直になれないちょっと捻くれたような性格になったとしても、その妹自身にもわからない心の奥を理解してあげられるような、そんな兄になれるだろう。
「あの、あのね!」
 男の子が駆け寄り、私の手を取る。始めに私の手を取ってくれた時よりも力強く感じたのは、きっと錯覚じゃない。
「おしえてあげるよ!」
 私の手を引いて、男の子が走り出す。私はつられて早歩きで前へ進む。何かプロデューサさんが慌てたような声をあげた。
「ここ、つかんで」
 男の子に誘導されて、手すりをつかむ。風がより強く私の髪をばたつかせる。よいしょ、と男の子が一声いれると声の位置が私のすぐ真横まで上がってきた。
「おいおい上によじ登るなよ危ないぞ」
「大丈夫! 慣れてるから!」
 大丈夫なの? と私も不安になって問いかけると、男の子はうん! と大きな声で返事をした。そして、私の腕を再度とって右手の方向を指し示す。
「あっちにね、ぼくのいえがあるの、赤いやねの3がいのいえ。ぼくのへやは2かいのこっちがわ」
 頭の中でイメージをする。大きな青い空の下、小さな小さな住宅街にある、もっと小さな赤い屋根の三階建て。
「ちょっとひだりにいくと、川がある。小さい川だけど、ときどきお魚もいるの。で、その川をずっといくと、ぼくのがっこう」
 コンクリートで固められているけど、どこか懐かしい感じのする小川。それを川上に辿っていくと、幼稚園と小学校が隣接して建っている。
「でね、もうちょっとこっちにいくと、むこうがわに見えるのが、このまええんそくでいったうら山! セミもいるし、トンボもいるし、クワガタをつかまえたともだちだっているんだ!」
 都会に似合わないような緑溢れる小山。子供でも一息で上れるくらい小さな、丘とも言っていいような本当に小さな小山だ。だけど、これだけ離れたこの展望台からでも、私には鮮明に見えた。薄桃色の桜の花弁が、ぴんと尖った新緑の葉が、赤々と灯る紅葉が、寒さに耐える渋い木の肌が。
「わかる?」
「うん、わかる。よく見える」
 耳元を、冷たく凜とした風が吹いて、そのまま何処までも透き通る空へと吹き上がり、消えていった。
 ここは、地獄の先端だ。
 あるいは、天国の端っこだ。
「ここはね、ぼくのね、お気に入りだから。妹にも教えてあげるんだ!」
「うん、それがいいと思う。きっと喜ぶわ」
 つまり、紛れもなく日常だ。
「で、あっちがね、海!」



 ―― ◇ ―― ◇ ―― ◇ ―― 


 これは、ぼくにとって、せかいでいちばんきれいで、いちばんせつないけしきです。さっきのページのものと、おなじけしきなんですが、きみたちによく見てもらいたいから、もういちどかきます。あのときの王子くんが、ちじょうにあらわれたのは、ここ。

 ――それから、きえたのも、ここ。



 ―― ● ――  ―― ○ ――


「やっぱり、いくんですか」
「そんな、何を今更」
 二月の半ば、北欧の病院や生活環境の調整、私のこちらでの様々な整理が終わり、ようやく向こうへ飛び立つ準備が整った。そして向こうへ飛ぶ直前の空港のロビーで、彼はそんな弱気な言葉を口にした。ロビーでは様々な言語が洪水のように押し寄せて、弱く小さな私を押しつぶそうとする。隣の椅子に座っている彼の膝の上にある左手を手探りで見つけ、そっと握る。彼も握り返す。
「いえ、だって予定より随分早くなったものですから」
「迷惑をかけてしまってすいません。あなたが随分と奔走してくれたおかげです」
 本当は、もう少し、数ヶ月、一年、この国にいるはずだった。いや、もしかしたら最初から渡欧する気なんてなかったのかもしれない。私は同じ場所に留まり、淀んで腐り落ちるはずの存在だったのかもしれない。
 けれど、それはやめようと決めた。動こうと決めた。
「本当に、あなたのおかげです」
 彼と毎日色々な話をした。昔の話。ついこの間までの話。最近の話。そして、未来の話。
「私は決めたんです。いつまでも同じ場所にいてはいけないって。なにかにぶつかってしまったら、だからこそ動くべきなんだって。あなたのおかげで決めました」
 今の私には、見えている。向こうでの新しい生活、友人、そして歌が。それらが軽快なリズムをとろうと、私の頭の中でうずうずしているのだ。
「一応、向こうの音楽業界の方に話は通してあります。けれど、いきなり無名の外国人の女が飛び込んでいってどうにかなる世界ではありません。そもそも、あなたはアーティストになるために向こうに行くわけではなく、治療をしに行くんですよ?」
「そうですね。でもまぁ、なんとかなるんじゃないでしょうか」
「なんでそんな自信満々なんですか……」
「私、三浦あずさですから」
 彼は大きなため息をついて、片手で頭を抱えた。
「あなたがどうしてAランクアイドルになれたのか、わかった気がします」
「本当ですか?」
 私はくすくすと笑って、彼の手を強く握った。
「じゃぁ、次のプロデュースに役立てて下さい」
「…………次の、プロデュース」
「はい。次にあなたが担当するアイドルの子です」
「はは、実はですね、次の担当アイドルはもう決まってるんですよ」
「そうなんですか?」
「双海姉妹ですよ」
「あらまぁ」
 なんというか、自分でも言うのも何だけど、振り幅の大きい話だ。
「といっても、あいつらもそろそろ上に上がることが決まってますからね。俺のやることなんてほとんどありませんよ。ま、自業自得ですけど」
「じゃあ、その次の子」
「先の長い話ですね。それまでに俺がクビになってなければ良いんですけど」
「大丈夫ですよ、あなたなら」
 力を抜いて、そっと手を重ねるだけにする。
「あなたなら、大丈夫」
 ぽーんというかん高い電子音の後に、英語でのアナウンスが流れる。
「もう、時間ですね」
 私は彼から手を離して、ゆっくりと立ち上がった。彼も慌てて立ち上がり、私に手をさしのべたが、私は首を振った。
「大丈夫です。これくらい一人で歩けます」
 彼も1つ頷くと、その手を降ろした。私と彼は、ずっと一緒にいて、色々なことをたくさん話した。だからもう、大丈夫だ。
 だけど、ひとつだけ困ったことがある。
 私たちが無言で向かい合っている間、周りの乗客達はどんどん搭乗口へと流れていく。おのおの家族や友人、恋人達と別れの言葉を交わして。しかし果たして、私には、私たちには、なんという言葉で別れを告げればいいのか皆目見当がつかなかった。
『さよなら』
 違う。そんな寂しい言葉は嫌いだ。
『またね』
 違う。そんな軽い言葉で再会の約束を交わしたくはなかった。
『愛してる』
 まさか。
 ただひとつの言葉が見つからなくて、私たちが戸惑っている間に、再びアナウンスの声が流れる。私は困ったような笑みを浮かべて肩を竦めた。彼も頭を掻きながら似たような笑みを浮かべる。私の目に映る、最後の彼の顔がそんな微妙な表情だというのは、らしいような気がして、それはそれで悪くないように思えた。
 私はくるりと振り返り、真っ直ぐ搭乗口へと一人で歩き出した。もうすっかり視力の落ちてしまった私の目では、搭乗口への道はよく見えなかった。だからこそ、私はもう道に迷うことがないだろうとわかった。それが可笑しくて、寂しくて、そしてほんの少しだけ不憫で。
 ますますぼやけてくる私の視界を拭うことはせず、真っ直ぐと前だけを見つめて、一人で一歩ずつ先へ先へと歩みを進めた。



 ―― ○ ―― ○ ―― ○ ――


「やっぱり、いくんですか」
「そんな、何を今更」
 二月の半ば。空港のロビー。並んで座る二人。
 四年前と、三日前と、そして今日。全く違うようにも思えたけど、全く同じようにも思える。そんな場所だ。
「いやぁ、なんかこのままこちらに残って活動するのもありなんじゃないかな、って思いまして」
「うふふ、確かにそれは悪くないかもしれません」
「悪くないなんてもんじゃないワ! 最っ高! ロテン風呂とサケの相性があんなにいいもんだとは思わなかったワ! 特にコンヨクだと――」
「……すいません、ちょっと黙っててもらえますか」
「えー」
「えー、って」
〈ごめんなさい、ちょっと二人で話がしたいの〉
〈…………はいはい。どうぞ二人でビジネストークでもピロートークでも好きなだけなさって下さいな〉
 子供みたいに唇を鳴らした私の付き人は、私たちから離れた場所に移動して、どかりと音を立てて不機嫌そうに椅子に座った。なんともまぁ、とプロデューサさんがため息をついた。
「うふふ。でもいい人だってわかるでしょう?」
「それはまぁ」
「本当に、いい人ばかり出会うんです。私なんかにはもったいないくらいに」
「それは羨ましい。俺にも少しくらいその運を分けて下さいよ。俺の周りには問題児ばかり集まります」
「私をはじめ?」
「あなたをはじめ」
 私は口元に手をあてて、声を上げて笑った。
 ひと笑いして、ふぅ、と息をつく。
「私ね、帰化しようと思ってたんです」
 え、と彼が驚く声を上げた。
「のんびりした向こうの空気は思ったより私に合ってて、信頼できる仲間もできました。そして、この国と違って、私をただの歌手として評価してくれるんです。もちろん悪気がない事は知ってます。でも、盲目の歌姫って肩書きはちょっと」
 この三日間の興業内容を思い出して肩を竦める。人はみんな悲劇が好きだ。もちろんこの国だけという訳ではない。ただ、自国のトップアイドルが失明してから海外での活躍、だなんて極上の悲劇ではないか。もし他人事であればきっと私だって、同情して、涙して、そして心の奥底で嘲笑しただろう。しかし、当事者になってみれば何のことはない。ただの日常だ。
「向こうは、私がより私らしくいられる場所なんです」
「そう、ですか」
 少しトーンダウンしたような、彼の声。ちょっとは寂しがってくれているんだろうか。私は含むように笑って、両手の平を胸の前でぱしんと合わせた。
「と、思ってました」
「……ました?」
 ぐるりと、見えない視線を周囲に巡らせる。
「でもやっぱりこの国が好きだなって。あなたと過ごしたこの三日間でそう改めて気づいたので。もうちょっとじっくり考えてから決めます」
 私はのんびりやだから、それが1年後か、10年後か、100年後なのかはわからない。
 はぁ、と彼が気の抜けたような返事をする。
「いや、確かに密度の濃い三日間でしたね」
「ええ、とっても」
 簡単には語りきれないくらいに色々あったのだ。けれどまぁ、その話はいつかどこかまたの機会に、噛みしめて思い出す事にしよう。
 彼の膝の上にある左手を右手でしっかりと握りしめた。これまで何度も何度も触れてきた彼の手だけど、いまだに飽きる事もなく私を導いてくれる、優しい、手だ。これだけで、私の周りから雑音が消え、弱い私を守ってくれる。
 だけど。
 今の私にはリズムがわかる。
 今の私には自分が誰だかわかる。
 今の私には一本のラインが見える。
 だから、四年前に出来なかった、【今目の前にある現実】の話を、今からしよう。


「プロデューサさんは、運命の人って信じますか?」


 私は一度なくした光を、この四年でまた見つけることが出来ました。すごく長かったような、あっという間だったような気もします。
 ねぇプロデューサさん、あなたはどうですか?
 新しい光は見つかりましたか?


 4年前。
 俺は、あなたについて行ってもいいって思っていました。そんな人生でも悪くないって。そういう風に生きていくのも間違っていない、いや、正しい事だとさえ思っていました。


 私も同じ気持ちでしたよ。
 なら今は?
 私は、今からあなたがついてきてくれても、それはとっても嬉しいって思います。




 ――探し物が、あるんです


 探し物?


 あなたがこの4年間で見つけられたものです。
 だけど、俺はまだ見つけていないんです。


 一人で、大丈夫なんですか?
 探し物は、一人よりも二人の方が見つけやすいと思いますよ?


 誰かさんのおかげで、俺は捜し物が得意なんですよ。


 だから?


 俺は、あなたと一緒には行けません。


 ……そう、ですか。


 彼の手を離して、大きくひとつ伸びをする。私の耳に多国籍の雑多な会話が戻る。息を大きく吸うと、異国の気配を強く感じさせる臭いが鼻をつく。二人だけの世界でいられれば、それは本当に素敵な事だけれど、残念ながら、世の中はそんな風には出来ていない。この四年間で作られた私と彼の日常は別物で、そしてその外にはより大きな日常が待っている。そこに建っている大きなメトロノームの世界に戻ってこれた事に、私は感謝しなければならないのだ。
 吸った息を大きく吐くと同時に、ふられちゃった、と私は小さく零した。
 かん高い電子音がなり、私が乗る便のアナウンスが英語で流れる。私の方に、付き人の彼女の小さな手が置かれる。
「もういかなきゃ」
 私はすくっと立ち上がった。彼は手を差し出さなかった。実際は見ていないのだけど、きっと彼は手を出さなかったのだと思う。
 彼の方を向いて、深々と頭を下げた。

「プロデューサさん、ありがとう、ございました」

 やっと、この言葉が言えた。出会った5年前からずっと言うべきだった言葉で、だけど見つからなかった言葉だ。私はきっと、この言葉を贈るために、ここに帰ってきたんだ。
「それは、俺の台詞です。ありがとうございました」
 そして私は、自分から右手を差し出した。彼も、右手を出して私の手を取る。
 これはただの、握手。
 もう、導くための手は必要ないから。彼の手は、私以外の誰かを導くために必要となる手だから、私は遠慮をしておこう。彼がプロデュースする、アイドルのために。
「あっ」
「どうしました?」
「いえ、私マフラーを巻いてたじゃないですか」
「あぁ、はい。あの迷子に渡したマフラーですか?」
「はい。実はあれ。あなたにプレゼントするつもりだったんですけど……。そういえばあの子に渡しっぱなしにしてしまって……」
「ええっと、それは……ありがとうございます、でいいのかな」
 結構頑張って編んだのに。けれどあの子が暖まってくれるなら、それでいい。
「俺も迷子のご両親も見つかった時の一騒動ですっかり忘れてましたよ」
「うふふ。まさか本当に――」
〈あずさ、申し訳ないんだけど〉
 ちょいちょいと私の友人が引っ張る。何事にもテキトーな性格に見える彼女だが、実はきっちりすべきところはきっちりしている。……まぁ、そのすべきかどうかというのは、彼女の中での裁量なのだけど。
〈そうね、ごめんなさい。もう行くわ。
 ――ねぇ〉
 くいくいと握手をしている右手を下に引っ張る。
〈ちょっと、屈んでもらえますか?〉
「ん? 俺ですか? なんですって?」
〈頭を下げて下さい〉
「えーっと、しゃがめばいいんですか? なんでそっちの言葉で……」
 手が下がったところで、彼の後頭部がある当たりに見当をつけ、抱き留める。そして、飛びつくように、彼の頬へ唇を寄せる。短く伸びた固い髭がチクチクして、少し痛かった。
 ヒューっと彼女の口笛が鳴った。
 ワンテンポおいて彼の首と手を解放する。
〈ハッピーバレンタイン!〉
 私は慌てて、すぐに後ろを向いた。私には赤くなった彼の顔が見えないのに、彼には真っ赤に染まった私の顔が見えるというのは、すこし不公平じゃないかと、こればっかりは見えない瞳に不満を持ってしまった。
〈いきましょう〉
 彼女の肩に手を置く。そして搭乗口へと真っ直ぐ歩き出した。数年前にはぼやけていた道が、今の私には、これ以上なくはっきりと見えた。
「あずささんっ――」
「また会いましょう! 蕪野さん!」



 ある細くよれた2本の道が、なんの偶然か一度交じり、しかしすぐに別れていった。
 その数年後、年数を経て再び交わった二つの道は、しかしまた前回と同じように、一点だけ交差して去っていく。
 けれど、私は知っている。
 線は、また近くない未来、再び交差することになるだろうと。
 それはきっとまた点を作るだけだろうけど、その点が無数に増えていけばいい。
 そして、今度こそ私の前に道が見えなくなり、歩みを進める事が出来なくなったとき。自信を持って振り返ってみようと思う。きっと、その無数の点は、一本の線のように見えるだろう。
 その時私は、その一本の線が【運命】と呼ばれるものだったのだと、そう確信するのだ



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